高山宏「夢十夜を十夜で」第一夜に関わる講義では、漱石の夢の話から自己愛の象徴ナルシスの描かれた絵画が連想されていた。わたしはさらに、目前の女が死んで百年後に百合の花になるという、このある意味不吉な話から、フィレンツェのウフィツィ美術館で見たレオナルド・ダ・ヴィンチの油彩「受胎告知」を想った。

「受胎告知」の絵画には、いくつもの決まりごとがある。春の日、ナザレのマリアのところに訪れた大天使ガブリエルは画面の左に位置して、その手には白い百合の花を持つ。百合の花はメディチ家の象徴で、フィレンツェの紋章にもなっているのだが、キリスト教ではマリアの処女性の象徴でもあり、転じてイエスをも表している。
ウフィツィには、レオナルドの他にもボッティチェルリ他の描いた「受胎告知」が描かれているが、レオナルドのものは、少し印象が違って見える。他の「受胎告知」は、マリアが修道院の室内に座り大天使を迎えているのに対して、レオナルドの絵では、マリアは無防備にも草花の生い茂った屋外にいる。大天使の手にした白百合の花も、近くの野原で咲いていたものを手折ってきたが如くである。白い花弁の中には、同時代の他の画家たちが敢えて描かなかった生々しい花芯が描かれている。レオナルドの百合は、漱石の夢に現れる百合のようにどこか艶かしい。天使の指先に投げられた視線は、どうやらマリアの腹部というか、その奥の子宮に向けられており、書見台の直線もこの視線の先を強調しているかのように見える。まるでマリアの処女懐胎を疑うかのように。
レオナルドの「受胎告知」は、従来のテンペラ技法で描かれた同じテーマを持つ絵画に比べて圧倒的に背景が大きく目立つが、その大面積の自然描写は春というには寒々しい。それは、当時レオナルド積極的に取り入れた油彩の新技術を産み出したフランドル地方の風景ともいわれる。遠景には港が見える。そして背景で特に目立つのが、後にゴッホがよく描いた糸杉の樹で、絵に均整を与え、前面の天使を引き立てているように思えるが、実はキリスト教でこの樹は死のシンボルでもあり、逆光の中規則正しく並ぶ姿はなんだか葬礼のようでもある。
マリアが書見台を置く脚のある石の箱も棺のように見える。その浮き彫りの装飾文様は、レオナルドの師ヴェロッキオがサン・ロレンツェ聖堂にあるメディチ家ピエロとジョヴァンニの墓の青銅製の棺に施したものとよく似ている。そのようなことを知らずとも、今、子宮に着床して宿ったばかりの胎児が、いずれは母の前で棺に入ることを暗喩しているような不吉な雰囲気が感じ取れるのである。
漱石がこの泰西名画の印刷物なりを見たのかどうかは知らないが、この絵にはキリスト教徒なら感じてはいけないはずの性愛と死の暗喩が散りばめられているように思われる。「第一夜」と同様に。

「受胎告知」の絵画には、いくつもの決まりごとがある。春の日、ナザレのマリアのところに訪れた大天使ガブリエルは画面の左に位置して、その手には白い百合の花を持つ。百合の花はメディチ家の象徴で、フィレンツェの紋章にもなっているのだが、キリスト教ではマリアの処女性の象徴でもあり、転じてイエスをも表している。
ウフィツィには、レオナルドの他にもボッティチェルリ他の描いた「受胎告知」が描かれているが、レオナルドのものは、少し印象が違って見える。他の「受胎告知」は、マリアが修道院の室内に座り大天使を迎えているのに対して、レオナルドの絵では、マリアは無防備にも草花の生い茂った屋外にいる。大天使の手にした白百合の花も、近くの野原で咲いていたものを手折ってきたが如くである。白い花弁の中には、同時代の他の画家たちが敢えて描かなかった生々しい花芯が描かれている。レオナルドの百合は、漱石の夢に現れる百合のようにどこか艶かしい。天使の指先に投げられた視線は、どうやらマリアの腹部というか、その奥の子宮に向けられており、書見台の直線もこの視線の先を強調しているかのように見える。まるでマリアの処女懐胎を疑うかのように。
レオナルドの「受胎告知」は、従来のテンペラ技法で描かれた同じテーマを持つ絵画に比べて圧倒的に背景が大きく目立つが、その大面積の自然描写は春というには寒々しい。それは、当時レオナルド積極的に取り入れた油彩の新技術を産み出したフランドル地方の風景ともいわれる。遠景には港が見える。そして背景で特に目立つのが、後にゴッホがよく描いた糸杉の樹で、絵に均整を与え、前面の天使を引き立てているように思えるが、実はキリスト教でこの樹は死のシンボルでもあり、逆光の中規則正しく並ぶ姿はなんだか葬礼のようでもある。
マリアが書見台を置く脚のある石の箱も棺のように見える。その浮き彫りの装飾文様は、レオナルドの師ヴェロッキオがサン・ロレンツェ聖堂にあるメディチ家ピエロとジョヴァンニの墓の青銅製の棺に施したものとよく似ている。そのようなことを知らずとも、今、子宮に着床して宿ったばかりの胎児が、いずれは母の前で棺に入ることを暗喩しているような不吉な雰囲気が感じ取れるのである。
漱石がこの泰西名画の印刷物なりを見たのかどうかは知らないが、この絵にはキリスト教徒なら感じてはいけないはずの性愛と死の暗喩が散りばめられているように思われる。「第一夜」と同様に。