
(承前)母が聞いた噂では、T田さんのお父さんがスパイ容疑で拘留されたため、T田家は忽ち収入の道が断たれ、経済的危機に陥ったということだった。私大生のお兄さんの学費を捻出して卒業させるためには、T田さんが進学を諦めて働きに出て家計を助けるしかなくなったのだろう。年少の女子が家族のために犠牲となるという古典的な悲劇が、T田さんの身にも降りかかったということらしい。
それにしても気に掛かるのは、T田さんや家族は果たしてお父さんがスパイだった事実を知っていたのだろうか? 専業主婦のお母さんが、まさかスパイ活動をしていたとも思えないのだが、家族ぐるみでスパイだったという可能性だってある。映画「スパイキッズ」のように。
私は、以来、現実世界でT田さんと会ったことも、彼女を見かけたこともない。しかし、彼女は、忘れた頃に何度となく私の夢に現れるのだった。あるときは小学生の彼女がスパイのアジトに迎えてくれたし、またあるときは高校生の彼女が変装して大学に現れた。夢は、私が妄想を逞しくした結果の所産に違いないが、先日の夢に現れたT田さんは、黒皮のスーツ姿で駅に立っていた。遅刻しそうになった私が、高架になった駅の改札から幅50センチほどの細い階段を駈け下りたところに、ピンヒールを履いて立っていた。
小学生の彼女は中背だったが、その後あまり背が伸びなかったのか、高校生になった頃は小柄な部類だった。しかしヒールを履いた彼女は大柄にも見え、異様な装いが人目を引いている。そんな 007 に出てくるミシェル・ヨーのような格好をすれば、スパイであることが露見するではないか。と傍らの私は他人事ながらハラハラしていた。
T田さんの髪型は相変わらずのショートなのだが、奇妙なことに横顔は私よりずっと歳を取っているように見えた。苦労を重ねた分、顔に深い皺が刻まれたというような。それにしても老けすぎている。変装なのかもしれない。
改めて回りを見渡すと、何人かの人間が彼女の指図で動いていることがわかった。黒い撮影機を持った男や、背を向けて銀色の板を掲げている男もいて、どうやら映画を撮っているようだ。なぜかは判らないが、スパイであるはずの彼女は、さしずめ監督兼女優なのだろう。
彼女は私に気づかない振りをしているように見えた。突然、銀色の板を持った男が振り返って、その顔を見た私はひどく驚いた。彼こそはT田家の隣に住んでいた、あのT野君なのだった。