何年か前までは毎年、紅葉を見に京都まで出かけるのが愉しみでした。大概は寺社仏閣の中の庭園の紅葉を観て廻るのですが、それは紅葉だけを眺めるのではなく、伝統的な建造物や庭園と共に紅葉を観ているのでした。遠くに見える色づいた山々ですら、気づかないうちに借景として利用されていることもありました。これはもう紅葉と人工物との関係性を鑑賞しているといっても過言ではない。と思ったりもしました。

よくよく考えれば、当の紅葉だって既に人工物といってよいかもしれません。道に沿って植えられていれば、それはもう立派な人工物ですし、庭園の中にあれば、予め見栄えのするように配置されています。観る者に理想的な方向からの鑑賞を強制することすらありますから。人工物なら、当然庭師のような作り手が存在して、作り手の作為があります。そこには見えない視線のようなものさえ感じられるのです。



今回、甲府の武田神社で見た紅葉は、広葉樹の雑木林の中にあり、視界には人工物はなく、どこにも作り手が見当たらないところが新鮮で贅沢な気さえしました。こんなことを書くと都市生活者を気取っているように思われるかもしれませんが、都市の植生は作為に満ち溢れ、既に本当の「自然」などどこにもないのかもしれません。