慶州で買った絵葉書の中に下のような一枚がありました。1914年、朝鮮併合直後の仏国寺(불국사)の写真なのですが、まさに廃墟です。奥に見えるのが岡本太郎の写っていた「青雲橋・白雲橋」、手前に見える石段が「蓮華橋・七宝橋」です。どちらも欄干部分が欠けており、回廊は失われたままです。屋根のある建物は、奥に見えるのが「紫霞門」手前に見えるのが法鼓の置かれた「泛影楼」で、回廊はありません。「釈迦塔」の姿も見えます。太郎が訪れた 1964年の写真と見比べてみると、寺の荒れ具合は両者の間に大差はないように思えます。(境内配置)

仏国寺(1914年)
仏国寺の歴史を振り返ってみると、まず創設は 525年とも言われていますが、現在の場所に石造の基壇が築かれ木造の大伽藍が建てられたのは 751年と歴史書に記録が残っています。仏教文化の栄えた新羅の国が三国統一を成し遂げた後の平和な時代です。当時の伽藍は現在の10倍以上もあったそうですが、想像ができないほどの規模です。
ここからは韓国の観光ガイドの決まり文句です。「仏国寺の大伽藍は、新羅の滅んだ後も、高麗、李氏朝鮮の時代を通じて何度も修理が行われ保存されてきましたが、1592年の豊臣秀吉による壬辰倭乱(朝鮮出兵、文禄の役)で、日本人によって殆どすべての建造物が焼かれてしまいました。」 寺の入口の説明書きなどにも、日本人の侵略により貴重な文化遺産を失った旨が日本語で書かれていました。隣に書かれた英語の説明の中に、「野蛮な日本人」というような、日本語の説明よりひどい表現が使われているのを見つけ少しムカついたのを覚えています。
韓国人ガイドに連れられてやってくる日本人の団体観光客は、400年以上前に祖先が犯した暗い歴史を聞かされ看板や実物を目の当たりにして、いつもの癖で思わず韓国に謝罪したくなる衝動に駆られるのでしょう。
しかし戦乱に明け暮れた朝鮮で、8世紀に建てられた大伽藍が16世紀まで 800年近くも創建当時のままに保存されていたのでしょうか? 高麗王朝(918~1388)は仏教を国教として僧侶の身分も高かったと聞きますから、寺院は手厚く保護されていたに違いません。高麗朝前期は、中国に安定した統一王朝が現れず、中国と朝鮮との力のバランスが崩れた時代でもあったため、高麗は朝鮮史上でも珍しく中国の属国に甘んじず独立性を高めた時代でもありました。しかし高麗朝末期には中国に強大な元が立ち、日本侵攻を企てた元が高麗に侵入したため国中大きなダメージを得ている筈です。
高麗滅亡後 500年以上続いた李氏朝鮮(1392~1910)はまさしく元・明・清の属国で、建国・朝鮮統一当初から「崇儒抑仏」の政策を採って数々の仏教弾圧を行った国家でした。一万以上あった寺の大半を潰し、宗派を二つにまとめ、僧侶を強制労働に駆り出して、終いには出家を禁じていた国です。僧侶という身分は、四賤 (妓生、僧侶、常奴、奴婢) の一つにまで貶められていたのです。李氏朝鮮建国から文禄の役(壬辰倭乱)までは、数えるとちょうど 200年、この間に大伽藍の修理を欠かさず行っていたとは考えにくいのです。
仮に李氏朝鮮が仏国寺を貴重な文化遺産と見做していたならば、伽藍焼失後に積極的な再建が行われた筈です。調べていくと確かに 1659年に再建が始まり、木造の「大雄殿」が 1765年に再建されたとあります。「大雄殿」は「青雲橋・白雲橋」を上り「紫霞門」をくぐると正面にある本殿です。こちらは朝鮮併合前夜の 1908年に撮られた写真が絵葉書になっていました。ソフトフォーカスにしてあり、建物の周囲がどうなっていたのか、今ひとつ判らないのが残念です。

大雄殿(1908)
日帝時代の仏国寺を撮った写真、つまり太郎が訪れた寺の姿に近い写真がないかと探してみました。文禄の役後の李氏朝鮮時代 300年間の復元状況がよく判ると考えたためです。

(朝鮮名所)慶州新羅古蹟佛國寺(新羅法興王ノ時代ニ創建サレタモノ)
この絵葉書の写真はキャプションが書かれており、上の二枚と同時期かそれ以前のもののようです。一枚目の絵葉書の写真と逆方向の高い位置から撮ったものですが、前面右から「青雲橋・白雲橋」「蓮華橋・七宝橋」の石段、木造建築「紫霞門」「泛影楼」「安養門」が見え、後方右には石塔「多宝塔」と二枚目の絵葉書の「大雄殿」が見えます。回廊はなく、主たる建築物は、どうやら 1765年に再建されたという「大雄殿」だけのようです。

もうひとつ「大雄殿」の後方から、現在の仏国寺の境内全体を撮影した貴重なパノラマ写真がありました。「大雄殿」の左手に「多宝塔」「紫霞門」が見え、右手には「極楽殿」が見えます。「極楽殿」は 1925年に日帝支配下で再建されたものなので、これは昭和以降の写真のようです。目を引くのは、遺構の発掘が十分に済まされていることです。
こうしてみると、李氏朝鮮が文禄の役後に再建した部分は「大雄殿」と前面の一部だけで、仏国寺を貴重な文化遺産と見做して積極的に復元しようとしていたとは思えません。もともと自国の都合の悪いことは皆、大悪人の豊臣秀吉が焼いてしまって判らなくなった。と主張する韓国のことですから、400年前、日本人によって焼かれた建物というのは、現在の十倍規模の大伽藍などではなく、案外、疲弊した李氏朝鮮王朝の時代に既に荒れ果て朽ちかけていた古寺だったのではないでしょうか。韓国で団体旅行に参加すると、反日教育を受けたガイドによって言葉巧みに洗脳される危険性があるため、中立的な精神を保つためにも Tomotubby は個人旅行をお薦めする次第です。

仏国寺(1914年)
仏国寺の歴史を振り返ってみると、まず創設は 525年とも言われていますが、現在の場所に石造の基壇が築かれ木造の大伽藍が建てられたのは 751年と歴史書に記録が残っています。仏教文化の栄えた新羅の国が三国統一を成し遂げた後の平和な時代です。当時の伽藍は現在の10倍以上もあったそうですが、想像ができないほどの規模です。
ここからは韓国の観光ガイドの決まり文句です。「仏国寺の大伽藍は、新羅の滅んだ後も、高麗、李氏朝鮮の時代を通じて何度も修理が行われ保存されてきましたが、1592年の豊臣秀吉による壬辰倭乱(朝鮮出兵、文禄の役)で、日本人によって殆どすべての建造物が焼かれてしまいました。」 寺の入口の説明書きなどにも、日本人の侵略により貴重な文化遺産を失った旨が日本語で書かれていました。隣に書かれた英語の説明の中に、「野蛮な日本人」というような、日本語の説明よりひどい表現が使われているのを見つけ少しムカついたのを覚えています。
韓国人ガイドに連れられてやってくる日本人の団体観光客は、400年以上前に祖先が犯した暗い歴史を聞かされ看板や実物を目の当たりにして、いつもの癖で思わず韓国に謝罪したくなる衝動に駆られるのでしょう。
しかし戦乱に明け暮れた朝鮮で、8世紀に建てられた大伽藍が16世紀まで 800年近くも創建当時のままに保存されていたのでしょうか? 高麗王朝(918~1388)は仏教を国教として僧侶の身分も高かったと聞きますから、寺院は手厚く保護されていたに違いません。高麗朝前期は、中国に安定した統一王朝が現れず、中国と朝鮮との力のバランスが崩れた時代でもあったため、高麗は朝鮮史上でも珍しく中国の属国に甘んじず独立性を高めた時代でもありました。しかし高麗朝末期には中国に強大な元が立ち、日本侵攻を企てた元が高麗に侵入したため国中大きなダメージを得ている筈です。
高麗滅亡後 500年以上続いた李氏朝鮮(1392~1910)はまさしく元・明・清の属国で、建国・朝鮮統一当初から「崇儒抑仏」の政策を採って数々の仏教弾圧を行った国家でした。一万以上あった寺の大半を潰し、宗派を二つにまとめ、僧侶を強制労働に駆り出して、終いには出家を禁じていた国です。僧侶という身分は、四賤 (妓生、僧侶、常奴、奴婢) の一つにまで貶められていたのです。李氏朝鮮建国から文禄の役(壬辰倭乱)までは、数えるとちょうど 200年、この間に大伽藍の修理を欠かさず行っていたとは考えにくいのです。
仮に李氏朝鮮が仏国寺を貴重な文化遺産と見做していたならば、伽藍焼失後に積極的な再建が行われた筈です。調べていくと確かに 1659年に再建が始まり、木造の「大雄殿」が 1765年に再建されたとあります。「大雄殿」は「青雲橋・白雲橋」を上り「紫霞門」をくぐると正面にある本殿です。こちらは朝鮮併合前夜の 1908年に撮られた写真が絵葉書になっていました。ソフトフォーカスにしてあり、建物の周囲がどうなっていたのか、今ひとつ判らないのが残念です。

大雄殿(1908)
日帝時代の仏国寺を撮った写真、つまり太郎が訪れた寺の姿に近い写真がないかと探してみました。文禄の役後の李氏朝鮮時代 300年間の復元状況がよく判ると考えたためです。

(朝鮮名所)慶州新羅古蹟佛國寺(新羅法興王ノ時代ニ創建サレタモノ)
この絵葉書の写真はキャプションが書かれており、上の二枚と同時期かそれ以前のもののようです。一枚目の絵葉書の写真と逆方向の高い位置から撮ったものですが、前面右から「青雲橋・白雲橋」「蓮華橋・七宝橋」の石段、木造建築「紫霞門」「泛影楼」「安養門」が見え、後方右には石塔「多宝塔」と二枚目の絵葉書の「大雄殿」が見えます。回廊はなく、主たる建築物は、どうやら 1765年に再建されたという「大雄殿」だけのようです。

もうひとつ「大雄殿」の後方から、現在の仏国寺の境内全体を撮影した貴重なパノラマ写真がありました。「大雄殿」の左手に「多宝塔」「紫霞門」が見え、右手には「極楽殿」が見えます。「極楽殿」は 1925年に日帝支配下で再建されたものなので、これは昭和以降の写真のようです。目を引くのは、遺構の発掘が十分に済まされていることです。
こうしてみると、李氏朝鮮が文禄の役後に再建した部分は「大雄殿」と前面の一部だけで、仏国寺を貴重な文化遺産と見做して積極的に復元しようとしていたとは思えません。もともと自国の都合の悪いことは皆、大悪人の豊臣秀吉が焼いてしまって判らなくなった。と主張する韓国のことですから、400年前、日本人によって焼かれた建物というのは、現在の十倍規模の大伽藍などではなく、案外、疲弊した李氏朝鮮王朝の時代に既に荒れ果て朽ちかけていた古寺だったのではないでしょうか。韓国で団体旅行に参加すると、反日教育を受けたガイドによって言葉巧みに洗脳される危険性があるため、中立的な精神を保つためにも Tomotubby は個人旅行をお薦めする次第です。