本来住むべきところにはおらず、呼ばれるべき名前を失い、話すべき言葉まで忘れてしまった黒人奴隷たち。彼らは、そんな悲惨な境遇を、教会の神父から聞いた聖書の世界に重ね合わせ、現世バビロンから聖地ザイオンへの脱出行、エクソダスを敢行することを夢想したのだろう。マーカス・ガーヴェイが現れてアフリカ回帰を叫んだときも、彼の予言どおりにハイレ・セラシエが即位したときも、後年ボブ・マーリーがラスタファリズムに関わるメッセージを歌ったときも、黒人奴隷の子孫は隔世遺伝的に反応したに違いない。本来いるべき場所にいない人たちは、いるべき場所を夢想したのだろう。

何の因果か、先祖が奴隷船で連れてこられた場所であるがゆえジャマイカに棲み、その地で先祖が洗礼を受けたことで生まれ乍らにしてキリスト教徒である者が、アフリカにおいて奇跡的にキリスト教の伝統を守ったエチオピアに一方的に恋い焦がれている。この盲目的な片思いの構造が、ラスタファリズムという奇妙な思想の本質である。異端ではあるがキリスト教的世界観が色濃く反映しており、聖書の世界からは大きく逸脱していない。キリスト教の枠組みの中にあること自体、この思想がアフリカ民族にとって普遍的なものになりえない所以ではないか。なにより皮肉なことに、黒人奴隷交易の引き金を引いたのが、ほかならぬキリスト教の拡大志向であったのだから。

アフリカ回帰のメッセージに呼応して、ジャマイカからエチオピアに移住したラスタファリアンがいることについては紹介したが、アメリカというバビロンに住む多くの黒人たちにとって、彼の地は果たしてザイオンたり得るのだろうか? レゲエのメロディーの中でノスタルジーを醸し出すその地は、されど飢餓の襲う世界最貧国のひとつでもあり、コンクリート・ジャングルとはまた別の厳しい現実が待っていることは誰にでも判る。アメリカに住み続け、ラスタファリズムの歌詞に心動かされることは自己欺瞞ではなかろうか? ラスタファリズムにおいて、ややもすれば服装や音楽などの、下卑た言葉で言うと、風俗的な部分ばかりが強調されてしまう現実が、この思想の限界のように思えてならない。