琉球王国は、1429年(室町時代)に中山王尚巴志によって統一されるが、その後も首里城から離れた地域では、王の力が十分及んでいなかった。勝連城に居を構えていた権力者、阿麻和利(あまわり)の存在は依然、王府にとっては脅威であった。1440年、尚泰久王は、座喜味城主であり、妻の父でもあった護佐丸(ごさまる)に命じて、勝連城の近くにあり、既に南の郭、一の郭、二の郭、西の郭が建てられていた中城城に移り住まわせ、阿麻和利を牽制させる。護佐丸は、さらに三の郭、北の郭を加え、中城城の防備をより強固にしている。
護佐丸の墓は中城城のすぐ近くの山腹にあるのだが、その最期は実に無残なものであった。1458年8月15日、月見の宴で宿敵阿麻和利の計略にかかって自害したらしい。王の娘、百度踏揚(ももとふみあがり)を娶った阿麻和利が、讒言により王の命を受け、王府の旗を掲げて、その忠義ゆえに逆らうことのできない護佐丸を討ったといわれる。どうやら背後には漁夫の利を得ようとする王の陰謀がはりめぐらされていたようだ。暗いではないか。尚泰久王。
中城城主護佐丸を排した阿麻和利は、今度は王府のある首里城を落とすことを画策する。しかし妻である百度踏揚とその家臣鬼大城(おにおおぐすく)がこれを知り、勝連城を抜け出して兄・尚泰久王に密告する。結局は鬼大城率いる王府軍が勝連城を落し、阿麻和利も討たれてしまう。
王はここに護佐丸、阿麻和利の旧二大勢力を姻戚関係を利用して排除し、琉球王国の基盤を磐石なものにしたのであった。と思ったら、1469年、尚泰久王の死後、その子尚徳王はクーデターによって滅ぼされるのであった。

今では、中城城へは裏門から入る。まだわずかではあるが、開花度10%くらいだろうか。城には既に桜が咲いていた。見慣れたソメイヨシノとは違って、濃いピンク色の花びら。1月上旬でセーターを着ていると汗ばむ陽気だから、桜が咲いても不思議ではない。
石組みのアーチをくぐりながら、三の郭、二の郭、一の郭と上っていくと両側に海を望む壮大なパノラマが楽しめる。そこでは修道女が海を見ていた。他には誰もいない。世界遺産にしては、あまりにも訪問者が少ない。だいじょうぶかぁ~?沖縄。
魅力が乏しいせいではなく、交通の便が悪いのと、基地に近いせいだろう。中城城だけでなく、周辺の護佐丸の墓や中村家住宅、少し離れた勝連城などもセットにして廻るバスツアーなど、企画すると人気が上がるのではないか。

さて前置きが長くなったが、中城城は、話題の巨大廃墟ではないのである。
廃墟は城の隣にあった。
護佐丸の墓は中城城のすぐ近くの山腹にあるのだが、その最期は実に無残なものであった。1458年8月15日、月見の宴で宿敵阿麻和利の計略にかかって自害したらしい。王の娘、百度踏揚(ももとふみあがり)を娶った阿麻和利が、讒言により王の命を受け、王府の旗を掲げて、その忠義ゆえに逆らうことのできない護佐丸を討ったといわれる。どうやら背後には漁夫の利を得ようとする王の陰謀がはりめぐらされていたようだ。暗いではないか。尚泰久王。
中城城主護佐丸を排した阿麻和利は、今度は王府のある首里城を落とすことを画策する。しかし妻である百度踏揚とその家臣鬼大城(おにおおぐすく)がこれを知り、勝連城を抜け出して兄・尚泰久王に密告する。結局は鬼大城率いる王府軍が勝連城を落し、阿麻和利も討たれてしまう。
王はここに護佐丸、阿麻和利の旧二大勢力を姻戚関係を利用して排除し、琉球王国の基盤を磐石なものにしたのであった。と思ったら、1469年、尚泰久王の死後、その子尚徳王はクーデターによって滅ぼされるのであった。

今では、中城城へは裏門から入る。まだわずかではあるが、開花度10%くらいだろうか。城には既に桜が咲いていた。見慣れたソメイヨシノとは違って、濃いピンク色の花びら。1月上旬でセーターを着ていると汗ばむ陽気だから、桜が咲いても不思議ではない。
石組みのアーチをくぐりながら、三の郭、二の郭、一の郭と上っていくと両側に海を望む壮大なパノラマが楽しめる。そこでは修道女が海を見ていた。他には誰もいない。世界遺産にしては、あまりにも訪問者が少ない。だいじょうぶかぁ~?沖縄。
魅力が乏しいせいではなく、交通の便が悪いのと、基地に近いせいだろう。中城城だけでなく、周辺の護佐丸の墓や中村家住宅、少し離れた勝連城などもセットにして廻るバスツアーなど、企画すると人気が上がるのではないか。

さて前置きが長くなったが、中城城は、話題の巨大廃墟ではないのである。
廃墟は城の隣にあった。