アウシュビッツに行ってきました。

第二次世界大戦中にナチス党 率いるドイツ (ナチス・ドイツ)が推進した人種主義的な抑圧政策により、最大級の惨劇が生まれたとされる強制収容所

アウシュヴィッツ第二強制収容所とも言い、ドイツ占領地のポーランド・オシフィエンチム 市につくられた。


収容されたのは、ユダヤ人政治犯 、ロマ・シンティ(ジプシー )、精神障害者、身体障害者、同性愛者、捕虜、聖職者、さらにはこれらを匿った者など。その出身国は28に及ぶ。ドイツ本国の強制収容所閉鎖による流入や、1941年を境にして顕著になった強引な労働力確保(強制連行)により規模を拡大。

ピーク時の1943年にはアウシュヴィッツ全体で14万人が収容されている。


アウシュヴィッツは一般に言われる絶滅収容所 としてだけでなく、第三強制収容所モノビッツが示すように、戦争遂行に欠かせない労働力確保のための施設としても機能している。

その中で作用した「労働力として適さない女性・子供・老人などを選別し処分する」という仕組が、今日語り継がれる数多くの悲劇を生み出した。

一説には「強制収容所到着直後の選別で、70~75%がなんら記録も残されないまま

即刻ガス室に送り込まれた」とされており、このため正確な被収容者総数の把握は現在にいたってもできていない。

即刻の処分を免れ、たとえば労働力として認められたとしても多くは半ば使い捨てであり、非常に過酷な労働を強いられたwikipedia





呆然とした。

そして、たくさんの悲鳴が聞こえてきた。

頭の中がいっぱいになって、しんどかった。


多くの残虐な写真

死の壁 

収容者たちの写真、髪の毛

ガス室

焼却炉

住環境

食事

絞首台


前に進むことが出来ないほど苦しくて、でも、見なきゃいけない。見て伝えなきゃいけない。

そんな気持ちで歩いた。

150万人がここで亡くなった。


ガス室で虐待で餓死で銃殺で、そして、自殺で。

目の前で殺されていく仲間たち

何時間にも続いた点呼

些細なことでの懲罰

そして、死。

どんな気持ちでここでの生活を送っていたのだろうか

生きていくこと自体が地獄だった

忘れてはいけない。

アウシュビッツ収容所での歴史。

そして、もう二度と繰りかえさたくない。


イスラエル人のリランが、俺達は世界中から違う目で見られているから。と、言っていた。

ドイツ人のステファンが、私がアウシュビッツを見に行くと言うと悲しそうな顔をした。
中国人のコニが、第二次世界大戦に対しての気持ちを、私にいろいろ話してくれた。

アメリカ人が原子爆弾について謝って来た

オーストラリアでは、トロイのお母さんたちと、話し合った。


戦争は多くの傷を残し、多くの命を奪い、人を変えてしまった。


そして、今までの歴史の中にも存在した大虐殺。南京大虐殺、ポルポト派の虐殺、ルワンダ大虐殺、、アボリジニー虐殺、トルコのアルメニア人虐殺  今も続く スーダン ダルフールでの虐殺

そして、世界中で、今、餓死で、戦争で、死んでいく命たち。 目の前で愛する人たちが殺されていくのを見ながら、それでも必死に生きている人たちがいる。 本当に何も言えない。平和について、世界について、人間について、もっと深く 深く 考えていきたい。