朝鮮半島を舞台とした古代の大規模な海戦「白村江の戦い」を取り上げてみたい。

「白村江の戦い」とは、日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍との間で行われた。
史上はじめての日本と中国との戦であり、日本は大敗する。
そしてこれ以来、日本の大陸進出は影を潜め、
豊臣秀吉の朝鮮出兵まで日中間の本格的戦闘はみられない。


まずは時系列に事実を追ってみよう

6世紀に入って朝鮮半島では、新興国「新羅」が台頭してきた。
645年に、新羅では武烈王が即位し転機が訪れた。
武烈王は唐と日本(倭国)とも入朝した経験があり、二国を比較した上で
唐に従う事を決定したのだ。


660年斉明6年 /顕慶5年(唐の元号)

3月、唐は新羅の要請を受けて、蘇定芳率いる13万もの大軍を百済へ派遣した。
唐が百済を攻撃したのは、高麗(高句麗)との戦争を想定しての作戦であった。
高麗と同盟を組んでいた百済を先に片付けてから、高麗を攻めるという2段階作戦であったのだ。

唐の大軍を前に百済軍はなす術もなく、660年7月、百済の都・扶余が陥落し、百済は滅亡した。
このとき多くの女官が川に身を投げて死んだと伝えられている。

百済の義慈王と太子隆は唐に捕らわれた。
しかし百済の遺臣達は、将軍・鬼室福信を中心に百済再興のため、任存城て拠兵、古都・泗泚城奪回を試みる。
10月、鬼室福信は百済の同盟国・日本(倭国)へ軍事支援を要請する。
そして同盟のため倭国へ人質となって送られていた、義慈王の王子・余豊璋を
復興軍の王として迎えたいと申し出た。
斉明天皇・中大兄皇子は快くこれを了承。
百済救援軍を起こすことを決定して、女帝自ら、筑紫へ遠征する運びとなった。

661年 斉明7年 / 龍朔1年

正月6日 難波津を出立した斉明天皇が大和を立ち2ヶ月に及ぶ大旅行で筑紫に到達し、
3月25日 娜大津に着き、磐瀬行宮(かりのみや)を置き、 
5月9 朝倉橘広庭宮に遷幸した。
ところが、
7月24日、 朝倉宮で斉明天皇が崩御。

斉明天皇は、中大兄皇子の母。
大化の改新を乗り越え、有間皇子を滅ぼし、皇極から重祚して第37代 斉明に即位した女傑である。
享年 68歳。

突然の事態に、中大兄皇子が即位せず代わって政務をとることとなった。
このような政治を「称制」という。

ちなみに称制はしばらく続き、668年(天智7年)1月3日、漸く天智天皇として即位することになる。

662年 天智元年 / 龍朔2年
    
中大兄皇子は倭国軍を朝鮮半島南部に上陸させることを決定した。

5月、第一次救援軍(1万余人)を派遣。指揮官は安曇比羅夫、70艘の水軍で余豊璋を護送し
百済に上陸。中大兄皇子の意向を受けて豊璋を百済王にした。

この間、唐は高麗との戦に苦戦しており、唐軍は平壌包囲を解いた。
そのため百済再興軍の勢力は拡大し、百済の旧領が次々に回復していった。

663年 天智2年 / 龍朔3年
3月、第二次救援軍(2万7千人)が筑紫から一路海路をとった。
また第三次救援軍(1万余人)も続いたという。

この倭軍の動きをみて、唐が増援の劉仁軌率いる水軍7,000名を送り込んできた。

その直後、百済軍で内紛が起こり、豊璋王が鬼室福信を殺してしまった。
福信将軍を失った百済復興軍は著しく弱体化してしまう。

唐軍はその隙をついて百済の拠点である周留城に迫ってきた。

倭軍は対馬と南海島に寄港し、錦江下流の白村江へ向かっており、
そこで唐軍と激突し、大規模な海戦「白村江の戦い」が起こったのである。

「白村江の戦い」の経緯:

8月17日 唐・新羅連合軍は陸兵で周留城を包囲し、水軍170艘を周留城下の白村江に配備し
倭軍の来襲に備えた。
倭・百済連合軍の先鋒が白村江に到着したのは、10日後の8月27日であった。

新羅側の記録によれば日本軍は2千艘の大軍であったが、小船の寄せ集めてあった。
一方、唐・新羅連合軍は、当時の最先端の技術でつくられた大型船の集団であった。

8月27日、倭国軍の先鋒部隊が攻撃をしかけるも簡単に追い散らされた。

8月28日、夜明けとともに倭国軍は体制を整えて全軍による中央突破を決行した。
ところが、唐・新羅連合軍は、すばやく左右に分かれて倭軍の船を両側から取り囲んだ。

私兵の寄せ集めでしかない倭国水軍はたちまち隊伍を乱しパニックとなる。
唐・新羅連合軍は、はさみうちして的確に集中攻撃を加えて、倭国船400余艘を撃沈したという。

陸地では、新羅軍の騎馬隊が目覚しい働きを見せ、日本兵と百済兵を次々に倒していった。
このとき、倭国の勇者・秦田来津が敵兵数十人を倒した後、戦死した。

百済軍の拠点、周留城は陥落して、百済王となっていた豊璋は高麗へ逃亡したものの、
高麗滅亡後、唐に捕らえられ幽閉された。
残された倭国軍は、百済復興を諦めて亡命を希望する多くの百済遺臣を伴って海路帰国したのである。


「白村江の戦い」の大敗は、倭国の朝鮮半島からの後退、撤退を決定づけた。

そして天智天皇は、唐・新羅軍の来襲を恐れて、国土の防衛に力をいれた。
国土防衛の政策の一環として、
・朝鮮式山城を大宰府から瀬戸内海沿岸に築く。
・水城と呼ばれる大掛かりな堀を造る
・敵の侵攻を知らせる烽火台を築く。
・辺境を守るための防人を設置した。

即ち、大和王朝主導による国内軍備と中央軍制が整備されるとともに、中央集権を強化するための
中国式律令制度が本格的に導入された。
そして701年の大宝律令制定により倭国から日本へと国号を変え、新国家の建設はひとまず完了した。

同時に、百済からの大量の亡命者は、日本の貴族達に大陸の最先端技術や知識、文化を教え、
日本の知識層の拡大は日本の文化、産業を飛躍的に底上げさせたのである。

尚、私は2年前に岡山の「鬼ノ城址」に行ってきた。
この古代の城は、天智天皇が築かせた朝鮮式山城の一つと推測されているが、
それはまさしく「天空の城」と呼ぶに相応しい建造物であった。


想像を遥かに超えた大規模な建造物を目の当たりにして、
天智天皇の過剰なまでの「唐への恐怖心」をひしひしと実感したものだ。

この過剰ともいえる国防策のため、
日本国中から労役や防人、城守として徴集された多くの無名の古代人がいたのだ。
そして皮肉なことに過剰な国防意識は、
「日本国」という国家意識を日本人に植え付ける結果となったのだ。


しかし、天智の百済救援軍派遣は外交上の失策であったことは間違いなく、
唐と新羅との外交回復には時間がかかることとなった。

特に唐との国交回復を急ぐ天智は2度遣唐使を派遣しているが、唐との冷え切った関係は改善されず
壬申の乱後の天武朝になると遣唐使派遣は皆無となる。

その後、文武天皇によって遣唐使が再開され、粟田真人を派遣して唐との国交を回復、
そして聖武天皇の時代になり、大陸や遠くヨーロッパの影響を受けた華やかな国際文化が花開く。
いわゆる「天平文化」である。


戦争よりも、人と人との繋がりや文化交流が、国を豊かにし文化や産業を活気づける・・・
正倉院の至宝がその証拠ではないだろうか。


参考文献:「地図で読む日本古代戦史」武光誠著

https://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/65813386.html