早朝、急に思い立って京都の霊山護国神社に参拝した

坂本龍馬と中岡慎太郎のお墓にお参りがしたくなったのだ。

「龍馬伝」の影響だろう。
幕末についての資料を読む機会も増え、日々、想いが強くなっているからだ。


京都駅からバスに乗り「東山安井」で下車、徒歩5分ほど。

大河ドラマの影響で混雑してるかな・・と思いきや
やはり早朝だったためか、私以外には殆ど参拝客もいなかった。

朝の空気がすがすがしい。快晴で良かった。
2回目のお参りだが、町並みはあの当時と殆ど変わっていない。さすが京都というべきか。


「維新への道」碑


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混沌とした幕末から明治維新へと、
貴族でも高級武士でもない多くの下層階級の若者が流した血で「革命」が成就されたのだ。


天誅組総裁、土佐藩・吉村寅太郎の墓


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祭神の一人である。

明治元年(1868)5月10日、
明治天皇によって「幕末期に国のために戦って命を落とした志士たち」を慰霊するために
太政官布告が出され、京都・東山の霊山の佳域社を創建せよとの詔・御沙汰が発せられた。

当初の社号を霊山官祭招魂社と呼び、祭神は五百四十九柱あった。
(現在は1356柱)

天誅組の首将中山忠光卿、梁川星巌、梅田雲浜、頼三樹三郎、月照信海、
来島又兵衛、久坂玄瑞、寺島忠三郎、入江九市、
坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村寅太郎、平野国臣、宮部鼎蔵、真木和泉守等 であった。

龍馬も慎太郎も、祭神なのである。


坂本龍馬と中岡慎太郎の墓。



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傍らに藤吉の小さな墓もある。


今年2010年1月5日のニュースで、

ここ、霊山護国神社の、このお墓に、
実際に遺体が葬られていることを示す文書が、隣接の霊明神社に残されていることが分かった。

1867(慶応3)年11月15日の記録には、
龍馬や中岡慎太郎、小姓の藤吉の名前が記載され、いずれも「實(実)葬ナリ」と記載されている。 


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この場所に、
坂本龍馬と中岡慎太郎は、本当に眠っているのだ。

心を込めてお祈りした。
感慨もひとしおである。


龍馬と慎太郎の銅像


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ここからま京都の街並みが一望できる


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初めてこの場所を訪れたのは、大学卒業を控えた春休み。
友人と京都観光をして最後にこの墓へお参りしたのだ。

銅像の前の、同じ場所にたって、黄昏で朱に染まる京都を眺めながら
私はとてもセンチな気持ちになり涙が流れた。

ジョンレノンの「イマジン」が頭の中で静に流れていた・・・
あの時見た風景は忘れられない。

就職を控え「自分が何者になるのだろうか・・?」という自分探しの期待と不安が
交錯していたのだろう。甘酸っぱい青春時代が懐かしい。


池田屋騒動殉難烈士の墓柱群に宮部鼎蔵の名前を見つけた


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元治元年(1864年)六月五日、新選組によって惨殺された。
肥後出身。吉田松陰の親友で、三条実美の知遇を得て在洛志士群中の指導者であった。

龍馬の盟友、望月亀弥太や、吉田松陰門下生の吉田稔麿の墓も同じ列に並ぶ。


さらに上を目指し細い階段を上る。
ずらりと並ぶ墓標・・・

その多くが、志半ばで命散らした若者達であると思うと、無惨な想いに駈られる。


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霊山墳墓の一番高い場所に奉られていたのは
木戸孝允(桂小五郎)の墓。


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さすが明治新政府の最高顧問の墓である。

明治10年(1877年)5月、西南戦争勃発のため京都へ出張中に持病が悪化して亡くなる
「西郷、もういいかげんせんか!」が最期の言葉であったという。

傍らには磯松の墓があった。
共に維新のために戦った同志達と、同じこの霊山でで眠っている。



桂さんの墓参りを終えて、細くて急な階段を下りると
大きな墓碑の前にでた。

「元治元年七月十九日戦死者埋骨塚」とある。


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説明文を読むと、禁門の変で命を落とした無名の志士達の骨を祀っているとのこと。

明治維新のため、命散らした多くが無名の若者であった。

そう思うと、思わず涙が溢れてきた。

胸を突き上げる想いとでもいおうか、
自分でもびっくりするぐらい、傍目も気にせず、おんおんと号泣してしまったのだ。
廻りに人が居なくて本当に良かった・・・


突然号泣してしまったのは、志半ばで命落とした若者の無念の思いだけでなく
その若者の母や、その家族の気持ちになったからだろう。



名前が刻まれた志士だけでなく、こうして無縁仏となった戦没者にも、皆、
母や父や兄弟があり、恋人や、妻や子供がいた者もいただろう。

そんな、残された者たちの哀しみや涙も歴史に刻まれるべきなのだ。


例えば、明治維新当時は殆ど無名の存在であった坂本龍馬の姿が、
生き生きと現代に伝えられ、小説やドラマで描かれ私達が感激することができるのは、
彼の残した書簡に負うところが大きい。

龍馬の書簡は、現在、130通以上確認されているが、
最も多いのが乙女姉さんに宛てたものである。
連名のものも含めると乙女宛ての手紙は全部で18通もあり、
そのうちの8通は国の重要文化財に指定されている。

とはいえ、乙女さんは、龍馬の事を後世に伝える目的ではなく、
きっと、可愛い弟が生きた証として、手紙を大切に保管していたのだろう。

それは、亡くなった弟への愛惜の思い、失った家族への愛であろう。



京都東山護国神社への参拝は、2回とも涙、涙・・あった。
しかし、月日が流れ、年を重ねて観たその風景は、別の感慨深さがあった。


きっと次に参拝したときは、
また違う風景を観て泣くのだろう。
そして、必ず、勇気を与えてくれる。


龍馬と慎太郎の銅像が眺める京都の風景
「何を思ふ・・・」


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命のありがたさ、平和のありがたさ、家族のありがたさを再確認できる場所だ。

https://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/62903374.html