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天正5年9月、

謙信率いる上杉軍は、信長との直接対決のため出陣します

このとき17歳となっていた樋口兼続の初陣でありました。

17歳の初陣・・・当時の若者にしてはちょっと遅いのかもしれないですね


でも、武士たるもの「初陣」は何よりも目出度いことであったのです


多分、まだ少年の心を持った兼続は、言葉を変えれば「うきうき気分」で
戦場の本当の意味をまだ知らなかったのでしょう。


敵を殺さなければ、自分が生きては帰れない。


古今東西、現代でも、
戦場が「人殺しの場所」であることに変わりはないのです。


産まれて初めて、敵と刃を交わした兼続は

命乞いをする敵の手に、「母からの守り」があることに気がつきます


敵とはいえ、同じ人間。
相手を殺すということは、その家族もまた涙に暮れるということなのです

兼続は、わずか5歳で母の元から離れ
上杉景勝の家臣として成長しただけに


母への思いは、格別なのです・・・


そしてその後、
自分が切り捨てることが出来なかった若者の遺体に遭遇した兼続は
それこそ、人目も憚らず、涙するのでした。


このシーン・・・

私も大いに泣いちゃいました。



兼続の弱さは、しかし、それが敵であれ、人への思いやりの裏返しなのです
人への思い、家族への思い、敵であれ味方であれ、命あるものへの慈愛は
兼続の弱さであり、また強さにもなるのでした。

それが後の兼続の志 「愛」なのです。



敵の手をとり、その無念の思いや彼の母への思いに涙しているとき

妻夫木君、演技じゃなく本当に泣いてましたね・・・


妻夫木君に樋口兼続の魂が乗り移った瞬間だったように思います。



戦場=人殺しの場所 であることの恐怖に打ち勝てない兼続は
上杉軍の快進撃とはうらはらに、迷い悩む毎日でした。


しかし、難攻不落の七尾城攻めのため年越しの上杉陣中では

謙信の二人の養子、景勝と景虎のライバル対決が目立つようになってきました。


景虎の家臣が、捨て犬に「喜平次(景勝の幼名)」と名づけてからかい、いたぶる所を目撃した兼続は
相手の挑発にのって思わず刀を抜き、斬りあいを始めます


「陣中での喧嘩はご法度」

景勝とともに謙信の御前で仕置きを受ける兼続。

「部下の失敗は上に立つものが責を負います」と兼続をかばう景勝。

しかし謙信は、兼続に

「今すぐ、陣中を去り上田庄にて蟄居」を申し付けるのでした。


たるみがちな軍の規律を守るため、いくら景勝の頼みとはいえ
兼続だけを許すことなどできない相談でした。


そして謙信公には、別の思惑もあったのです


命の駆け引きに迷う兼続が、自分の弱さゆえに、無鉄砲な行動を起こしてしまったことを
看破していたのでした。

戦場で「一瞬の迷い」があれば、命などいくつあっても足りません。

謙信は「今のお前なら、無駄に命を落とす、修行しなおしてこい!」と兼続を叱咤激励するのでした


このときの景勝がまたいい!

「殿のお側を離れることとなり、申し訳ない」と謝る兼続に

「たわけものが!」とたった一言。


実際の景勝は、本当にこんな殿様だったようです。
無口だけに怒るとすさまじく怖かったとか・・・・

軽めの演技が多かった北村一輝さんにも、どうやら景勝の魂が降りてきたようです。



魂が降りてきている・・・・といえば

吉川晃司さんの信長公!

今回の信長公は、ワインばっかり飲んでましたね~(^^;



密偵を放ち、上杉軍内の情報収集する信長公。

ここで初音さんの「ドラマ」での正体が明らかになりました。
忍びのもの=くのいち。

原作での真田庄の「ノノウ=巫女」ではないようです。(やっぱり倫理上問題でも?)


「此度の戦、織田軍の勝利にございます」

初音の報告にうなずく信長公。

「あの若者に合ったか?」

「・・・いいえ」

と咄嗟に嘘をつく初音。

鋭い眼光の信長公は、初音が兼続に興味があること、
そしてこの女を100%信頼してはならぬと、確信したに違いありません。

こ、怖い目でした~。でもカッコイイ~!!


さて、

今回、兼続が蟄居となった「七尾城攻めでの陣中でのいさかい」は、

ちゃんと原作に描かれていました。

しかし、ドラマと違うのは、上杉景虎も家臣と共に喜平次と名づけた犬をいたぶる内容だったことです


原作では、【嫌味な美青年】として上杉景虎は描かれているのです



ドラマでは、史実の景虎のように、温厚な性格で描いてくれるので好感が持てますね。


景虎(玉山鉄二くん)がいい人であればあるほど
この後の「御館の乱」は辛い展開となってしまいます


怪我をした兼続に
「お前も怪我をしているではないか。」と声を掛けるお姿は、凛として美しく・・・

玉山君にも上杉景虎が降りてきてましたね。
多分、「御館の乱」で私を泣かせてくれるでしょう!


謙信公の阿部さんや、婚礼のきまったお船さん、仙桃院、お藤さんや与七(小泉孝太郎君)などなど
まだ書きたい内容はあるのですが、「兼続の初陣」だけに絞った感想にしました。

今回は、それだけ見ごたえのある「人間ドラマ」でした!
視聴者として、満腹で~す。


それではここで「勝手に補足」コ~ナ~!

今回は、織田信長公の側から見た「手取り川合戦」について

今年の大河は上杉家が中心なので、「手取り川合戦」も上杉中心の取り上げかたになっています

すなわち、織田信長の10万の大軍を、加賀小松の手取り川で、3万の上杉軍が蹴散らした。

という内容です。

しか~し、織田信長サイドには、この合戦に関する資料がほとんどありません
そのため、その信憑性を疑う向きもあるのです


信長公に関する一級資料「信長公記」の北陸征伐を抜粋してみますと、

(天正五年)八月八日、柴田修理亮大将として北国へ御人数出され候。
滝川左近、羽柴筑前守、惟住五郎左衛門、斉藤新五、氏家左京亮、伊賀伊賀守、
稲葉伊豫、不破河内守、前田又左衛門、佐々内蔵助、原彦二郎、金盛五郎八、若狭衆、
加賀へ乱入。
添川、手取川打越し、小松村、本折村、阿多賀、富樫所々焼払ひ在陣なり。

羽柴筑前守御届をも申し上げず帰陣仕候、曲事の由御逆鱗なされ、迷惑申され候。


和訳すると:

柴田、滝川、羽柴、丹羽(惟住)など、豪華布陣で加賀へ侵攻した。
手取り川を越えて近隣の村を焼き払った。

しかし羽柴秀吉が信長からの許しもなく勝手に帰陣したため、信長公が逆鱗した


とまあ、こんな内容です。
簡潔です。

天正五年に関しての「信長公記」の記述のほとんどが
同年3月の、紀州雑賀攻めと、8月の松永弾正の謀反で占められています。

確かに、このときの信長公は、

前将軍足利義昭がしかけた新たな「信長包囲網」に苦しめられいます

すなわち、

石山本願寺と毛利が連携と取り京へ攻め入り
上杉謙信は越中へ侵攻。
本願寺をバックアップする形で、鈴木孫一率いる紀伊の雑賀衆が蜂起。
そしてこの機を逃さじと、京のお膝元大和で、松永弾正秀永が謀反を起こしたのです。

まさに包囲網ですね

足利義昭という男は、本当にしぶとく、また謀略の上手い男です!


そういう視点から見れば、謙信への先制攻撃ともいえる加賀侵攻は
信長の操る駒の一手でしかないかもしれません

しかし、「信長公記」に記録された柴田、滝川、羽柴、丹羽、そして前田に佐々・・・等々、
信長軍自慢の精鋭部隊と武将の面々をみれば
信長公が謙信公との戦に、真剣モードであったことは一目瞭然です。


実は、北陸攻めの前年、天正4年に完成した「安土城」も
もちろん、京都に隣接した場所での政治活動という目的が第一でしょうが
北陸へ通じる街道の要所であることから、「上杉への備え」の城であると言われています

本気モードの信長公だけに、

柴田勝家との意見の相違から、羽柴秀吉が勝手に帰陣したことは
信長公にとって大きな痛手であったでしょう。

「逆鱗に触れた」秀吉が、よくもまあ許されたものです・・・


秀吉は毛利攻めを狙っていましたから、そのための駆け引きとも言われていますが
信長公の性格を知り尽くした秀吉だけに、生きた心地がしなかったのではないでしょうか。



「手取り川合戦の実態」について、個人的な意見を書きますと、



「信長公記」では織田軍が、越中や越後へ攻め入った記録がないところを見れば
手取川近辺から退却したことは間違いないでしょう。


一方の、上杉軍も手取り川から先へ進軍した形跡もありません


信長包囲網で連携していた、雑賀衆も降伏し、松永弾正も滅ぼされました
これ以上京へ向かい侵攻しても、援護射撃が見込めない以上、勝機はない・・・となれば

謙信公も、軍を引き上げざるを得ません。


上記の考察から考えれば、


恐らく両者「痛みわけ」だったのではないかと推察します。



上杉謙信は上洛の意図があったかどうか?の論議があります



前回感想文での「勝手に補足コ~ナ~」でもご説明しましたように

上杉謙信は、京におわす天皇や将軍様を守護する毘沙門天の軍、すなわち正義の軍=官軍
であることを標榜していました。

謙信公にとって、信長軍は
京に侵攻し将軍家を追い出しただけでなく、朝廷をも蹂躙する「悪の軍隊」そのものでした。

そんな悪を追放するという大義名分のため、謙信公は上洛を目指していたと思います。


そして信長を滅ぼしたあとは、自分が「天下人」になろうなどという野心はなく、
天皇や将軍を補佐し、正しき国家の建設を志していたのではないかと。



そんな志のため、


手取り川では信長を取り逃がしたものの、
満を持して京への出兵を決意したそのとき・・・謙信公の命のともし火が・・・


お~っと先走ってしまいました。



この時代を読み解くために重要な鍵は、足利義昭が度々画策した「信長包囲網」。



戦国の世の中に生きた武将達の外交術の奥深さを知ると
軟弱な日本の政治家達が、「あやかりたい!」と戦国好きなのも分かるような気がしますね。



写真は 泥足毘沙門天立像山形・法音寺蔵

上杉謙信は、春日山城本丸内に毘沙門堂を建て、出陣のたびに勝利を祈願しました。
この毘沙門堂の本尊が本像と伝えられています。


【拙分ですが・・・参照記事!】
『松永弾正久秀~乱世の梟雄~ 』
天正5年、信貴山城で爆死した、愛すべき極悪人です。