聖徳太子 ゆかりの名宝展 へ行ってきました!


天王寺公園内にある大阪市立美術館で開催されています

大阪市立美術館は初めてでした。
重厚でかつ大きな建物でびっくり。
天王寺公園って、「ブルーシートの家並」の印象が強くてなかなかいけなかったのですが
今はきれいに整備されていて、大勢の市民が集う公園になっていました!


私はこのブログでも散々書いていますように、聖徳太子の大ファンですので
この展示会はなんとしてでも行きたかったわけです。


展示会の趣旨は:


聖徳太子ゆかりの寺院であり「河内三太子」と称される、叡福寺、野中寺、大聖勝軍寺に伝わる
宝物約110点を展示。
なかでも叡福寺の「聖徳太子絵伝7幅は、南北朝~室町時代に制作された色鮮やかな大画面で、
太子の生涯にわたる重要な出来事を描いた名品。
本年この太子絵伝の本格的な修復が完成し、当時の鮮明な色彩が約500年ぶりに蘇りました。

それを記念しての展覧会となったとのことです。


ではその目玉作品である、叡福寺の「聖徳太子絵伝」をご紹介しましょう!

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聖徳太子絵伝 第5幅(南北朝~室町時代/ 大阪・叡福寺蔵)

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聖徳太子絵伝 第6幅(南北朝~室町時代/ 大阪・叡福寺蔵)


南北朝時代の作品のため、登場人物がすべて平安朝なのはご愛嬌・・・
聖徳太子の誕生から薨去、そして上宮家滅亡までを太子の伝記を絵解きする構図となっています。

たとえば第5幅には、
一番下の絵図は、 太子16歳 物部合戦
真ん中の絵図は、 太子33歳 秦河勝の先導で山城へ行啓
右の一番上には  夢殿に籠る37歳の太子の姿が描かれています

太子の歴史的な偉業(史実と捉えられているもの)以外にも、
エスパー超人的な太子を描いた伝記的な絵図も数多く見受けられます。

たとえば、第6幅の一番上の図は
甲斐の国から献上された黒駒に乗り富士山を越えた27歳の太子のお姿です。
その他、2歳で東に向いて南無阿弥陀仏と唱えたという有名な伝説の絵もありました。

ただし、7人の言うことをすべて聞き分けたという有名な伝説の絵図は、どこにも無かったんです。
不思議です。もしかしたら昔の人は7人ぐらい平気だったのかな??

叡福寺の「聖徳太子絵伝」以外にも、談山神社の聖徳太子絵図や絵巻など
さまざまな展示がありました。


古代史を愛するものとしては、史実ではない伝記的要素が多く見受けられ
しかも平安貴族が甲冑着てたりして、違和感は正直ありましたが、
推古朝622年に亡くなられた太子が宗教的崇拝をもって後世の人々の心の拠り所となっていたことが
良く分かりました。


しか~し、本テーマからはずれてますが、考古学、古代史マニアの私がもっとも注目したのは
なんといっても、「聖徳太子廟」(磯長陵)に関する資料 です!


聖徳太子の大きな謎の一つ、三骨一廟(三人合葬)ですよ~!



聖徳太子マニアにしかこの興奮はわかってもらえないかも。
実際、当日も、聖徳太子廟コーナーで熱心に鑑賞していたの私くらいでしたから(^^;

ここで、三骨一廟(三人合葬)の謎についてちょっと解説しますと、

聖徳太子は、実母である穴穂部間人皇后と、太子の妃である膳郎女の棺とあわせて
三棺が一緒に埋葬されているといわれています。

太子ほどの人物が、何故合葬などどという「しょぼい」葬られかたをされたでしょう?

推古天皇の摂政であっただけでなく、一時期は天皇として政務を行った可能性もある権力者
なのです。

しかも、聖徳太子の薨去は、妃の膳郎女が亡くなった翌日と日本書紀に記されており、
他の資料では同日二人はなくなったとも言われているなど、その死因にも疑惑がもたれているのです。


ところが、8世紀に書かれた日本書紀では、聖徳太子御廟(磯長陵)に埋葬されたのは太子一人だとなっており穴穂部間人皇后墓所は別の場所だとされています。


日本書紀の記述との相違も謎を深める原因であるのです。



聖徳太子の墓所は法隆寺だと思っている人も多いかもしれません。

しかし、実は今回の展示物のメインである、叡福寺内の「叡福寺北古墳」が、
聖徳太子御廟・磯長陵と宮内庁により比定されています。

叡福寺縁起によると、太子の死後に推古天皇の勅命により創建され、
後に聖武天皇が七堂伽藍を建立、平安末期に東西二院からなる大寺院に発展したと記されています。
ところが実際の創建については不明な点が多く、御廟自体もこれが太子の墓所と認知されたのは
平安時代半ば頃と想定され、廟前の寺院としての叡福寺の体裁が整ったのがこの頃かと思われます。

宮内庁管轄のため、現在では墓所の調査はできません。

では、何故三人合葬だと言われているのでしょうか?

それは宮内庁指定以前に、聖徳太子御廟は、太子の人徳を慕う人達が参籠し
その記録が残されているからなのです。

特に弘仁元年(810年)、弘法大師(空海)がこの聖徳太子御廟へ参籠したときの廟内の記録を
宝暦5年(1755年)に叡福寺東福印の僧、玄俊が書写したものが伝えられています。


それが、玄俊の「聖徳太子廟内古図」なのです!


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いや~。現物を見たんでかな~り興奮しちゃいましたね。
3台の棺がしっかりとかかれていますよ!


空海だけでなく、一遍上人も太子の人徳を慕って、聖徳太子御廟へ参籠されました。
そのときの様子を描いた、「一遍聖絵 巻第八」(国宝) です。

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画面中央、一遍上人が参拝する古墳の入り口にはっきりと石棺が描かれておりました。


また近年での学術調査として宮内庁職員である富岡鉄斎が、明治12年に入廟し、
このときも三棺合葬となっている石室図を記録として残しています。

つまり、三棺合葬は日本書紀の記述の信憑性を崩す証拠となる資料でもあるのです。


ところがこの三骨一廟(三人合葬)については、ある疑惑もあると、今回の展覧会で知りました。


正暦5年(994年)に、忠禅という僧が廟内に入り「不可思議作法」をした。


と「聖徳太子伝私記」に記載されています。

この「不可思議作法」こそ、太子一人の墳墓に後から二棺を加えて三棺合葬にしたのではないか?
そういう説もあるのだそうです。

ただし、もし玄俊のコピーが正しいとすれば、弘法大師の入廟のあった、880年にはすでに
三棺であったわけで、つじつまが合わなくなります。

個人的な見解ですが、太子の晩年の行動や、上宮滅亡への流れをみれば、
やはり日本書紀では公にできない、何か事件か陰謀があったと考えます

蘇我蝦夷邸宅跡らしき遺跡の発見で、日本書紀の記述が場所といい炎上した形跡といい、
内容がぴたりと合っていることも証明され「日本書紀はかなり誠実な正史である」と
最近認識を改めた私ですが、やはり聖徳太子に関しては、ことが重大だけに
隠蔽すべき事件があったと考えます


・・・・聖徳太子の謎については語りだすときりがないので、ここら辺で辞めときます ・・・

興奮冷めやらぬ私の目の前に、

こんなものが・・・!

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四天王寺縁起 後醍醐天皇宸翰本 国宝です!

これは、建武2年、四天王寺にて聖徳太子の「未来記」を閲覧した後醍醐天皇が
その内容に感激し、自ら書写しで末尾に手印を捺して納めた現物なんです。

つまり後醍醐天皇の直筆だけでなくその手形も分かるという大変な代物です。

豪快な筆、そして強引そうな手形・・・いかにも後醍醐天皇らしさが見て取れますね。


これ以外にも、’楠正成公筆と伝えられる「太子未来記伝義」も展示されていました。


南北朝動乱において南朝の正当性の根拠とされた「未来記」。
信憑性が100%疑われる代物なのですが、南北朝動乱の一旦を垣間見たようで感激しましたね。

「未来記」については、またいつか、ご説明いたしま~す。



その他、河内三太子と呼ばれるの叡福寺、野中寺、大聖勝軍寺に伝わる、
木像や秘蔵品なども多数展示されていました。


そのなかで私がもっとも印象をうけた作品です!

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金銅弥勒菩薩半跏像(白鳳時代・666年 / 大阪・野中寺蔵)重要文化財


台座の丸框に、計62文字の銘が刻まれており、本像が天智5年(666年)作成と分かります
また、尊格として「弥勒」と記銘されておりこれは他に類をみない貴重な作例なんだそうです。

白鳳時代の特徴がよく伝わる、素朴だけど温かいオーラのあった小さな弥勒様でした。


地味でマイナーな展覧会だと思っていましたが、
お年寄りを中心に多くの人が熱心に鑑賞されていました。

今でも、聖徳太子の人徳が浸透しているんだな~と実感しました。

そして、何よりも、私は河内三太子と呼ばれるこの三寺へ参拝したくなりました。
その場所にたって更に聖徳太子の功績や人格をイメージしてみたくなったのです。




「聖徳太子 ゆかりの名宝」
会期: 平成20年(2008)4月26日(土)~6月8日(日)
会場: 大阪市立美術館(天王寺公園内)
開館時間 : 午前9時30分~午後5時[5月17日(土)は午後7時まで]
休館日 : 月曜日、5月7日(水)
詳細 ⇒ http://taishi.exh.jp/index.html

興味のある方は是非一度。