「軍師官兵衛」も、いよいよ【毛利攻め】が始まる。

そこで、今回は秀吉軍が得意とした【城攻め】を中心に

戦国時代の戦(いくさ)の実態をご紹介したいと思う。

 

【城攻め】
戦国時代の【城】は、当然ながら戦(いくさ)を想定した建築物で、

要害、要塞の設備を兼ね備えていた。

攻められても落ちないことが最大の目的であったのだ。

 

例えば、昨年の大河「八重の桜」の会津籠城戦で、

アームストロング砲含む砲弾で1日1200発以上も被弾しながら

結局最後まで崩壊しなかった鶴ケ城天守閣の姿を思い出してもいいだろう。

城攻めは、ことほどさように難しかったのである。

 

城が戦場となる合戦は、

守る側からすれば「籠城戦」となり、攻める側からすれば「攻城戦」となる。

 

一般的に野戦とくらべ、城の攻防戦は時間がかかり、激しい戦闘になることが多い。

 

小谷城攻めは、約3年 (秀吉の横川城入りから落城まで)

有岡城の戦いは、約1年

敵味方とも、攻める側も籠城する側も、忍耐を強いられる合戦であった。

 

最もオーソドックスな攻め方は「力攻め」。

文字通り、力任せ兵力任せに攻める戦法だ。

 

しかし守る側も、城という要塞内から撃退できる。

攻める側の犠牲も多かった。

 

鉄砲狭間、槍狭間、石落とし 云々,

今でも現存天守へ登城すれば、戦国時代の名残を観ることができる。

 

 

味方の犠牲を抑える戦法としては「兵糧攻め」が揚げられる。

別名
「餓え(かつえ)殺し」
といい、城外から城中への兵糧を絶つことにより

開城に追い込む戦法で、秀吉が得意としていた。

 

 

秀吉の兵糧攻めでは

「三木の干し殺し (三木城)」

「鳥取の餓(かつえ)殺し (因幡鳥取城)」 が揚げられるが

どちらも戦国史上もっとも壮絶な兵糧攻めといわれている。

 

(2件の城攻めとも軍師官兵衛で取り上げられるはずなので、そこで解説を書こうと思っています)

 

 

秀吉は金の力で食料を買占め、海上を封鎖し、土塀等を築いて城を包囲して、

毛利からの兵糧搬入を徹底的に阻止した。

まさに蟻(忍び)一匹も通さない徹底管理で城を締め上げたのだ。

 

確かに攻める側の犠牲は少ないだろう。

しかし城内は目覆うような「飢餓地獄」であった。

当時の日本人は仏教の影響で肉食の習慣はなかったが、城内の馬、家畜から、

虫、草、根っこ、ありとあらゆるものを漁りつくし、最後は餓えて死んだ人肉まで・・・・

餓死するものは数千人に上ったという。

 

城内の悲惨な情況に絶えかねて、どちらの城も降服を願いでた。

城兵の助命と引き換えに城主切腹である。

 

開城した直後、秀吉は城内で粥を焚き、餓えた人々に振舞った。

そのとき「ゆっくり食べろ」と何度も注意したが、それでも多くの者が命を落としたそうだ。

極度に餓えた人間は、大量の食料を掻き込むと内臓が対応できず頓死するという。

 

兵糧攻めは、武士の、いや人としての尊厳を奪う戦法であり

黒田官兵衛はあまり好まなかったと言われている。

 

事実、播州三木城せめも因幡鳥取城攻めのときも

官兵衛は陣中には居なかった。

三木城攻めの間は、有岡城で幽閉されており、

因幡鳥取城攻めの間は、秀吉の名代で四国に渡っていた。

 

ちなみに、もう一人の軍師・竹中半兵衛は体調を崩し、

播州三木城攻めの陣中で病死している。

 

二人の軍師が陣中に居れば、ここまでの惨劇にはならなかったのかもしれない。 

 

 

秀吉の得意としたもう一つの戦法が「水攻め」である。

城の周りの地形を有効利用して川を塞き止め城を水浸しにする戦法であった。

川並衆であった蜂須賀党が彼らの土木工事技術を駆使して川をせき止めたと言われている。

 

備中高松城がその典型である。

 

 
http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/64867020.html
 【備中高松城】

 

私は実際自分の足で現場を歩いてみて、想像以上に、いやもうびっりするぐらい広大な範囲が

水に浸された事実を知り、秀吉という男の底力を実感したものだ。

 

これほど広大な土木工事を短期間の突貫工事で完成させるには、

相当な人力とお金が必要であったに違いない。

官兵衛が「命の使い道」であるなら、さしずめ秀吉は「お金の使い道」であろう。

 

その他、珍しい戦法として「もぐら攻め」がある。

城外からトンネルを掘り、城内の井戸に毒を入れたり、井戸を破壊して水を絶ち、

開城に追い込む戦法だ。

これは武田信玄が得意とした。

金山の金堀人を集めて、金堀の技術を駆使してあっというまにトンネルを完成させたという。

元亀2年(1571) 駿河深沢城攻め、

天正元年(1573) 三河野田城攻めが有名である。

 

信玄は 「風林火山」を旗印に野戦でも最強を誇っていたが、城攻めも強かった。

しかも力攻めではなく、金堀職人の技術を活用し、忍びや細作で撹乱させるなど

お金も犠牲も最小限に食い止めようとした。

スマートな戦略家だったと思う。

「孫子」の本質を理解し、実行した、真の継承者であったのだろう。

 

さて「城攻め」は長期戦が常である。

兵糧を断たれたら城攻めどころではない。

籠城する者も攻める者も、食料の確保は合戦を左右する重要なポイントであった。

 

大将は戦いをあらかじめ予想し、それにあわせて兵糧を準備して、出陣と同時か、もしくは

先発させる必要があった。

 

兵糧輸送の部隊は
「小荷駄(こにだ)隊」
と呼ばれていた。農民が運送していたのである。

食料の準備から輸送の実務までを差配していたのが、『兵站奉行』である。

合戦の規模が大きくなり、戦火が遠くなればなるほど、この兵站奉行の差配が重要となった。

兵站奉行は、前線ではたらく武将と同格以上の評価をうけていた。

 

特に武力で踏み潰すよりも、じわじわ「城攻め」を得意とする秀吉は、特に「兵站」を重要視した。

秀吉の兵站奉行として、
石田三成、増田長盛、長束正家
などが挙げられる。

なかでも石田三成の兵站手配は、抜きん出ていいた。

結果、豊臣人事においてメキメキと頭角を現していくのである。

 

 

参照 : 『戦国手帳』 小和田哲男先生 (静岡大学名誉教授)

 

https://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/66864357.html