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上杉景虎

(天文23年(1554年)~天正7年3月24日)


上杉景虎は、小田原の雄、北条氏康の七男で

幼名は北条三郎といいました。


何故、謙信は、長尾景勝という血縁の濃い養子がありながら
北条家から養子を取ったのでしょうか?


永禄12年(1569)小田原の北条氏康が、上杉謙信への和睦を申込みをし、
越相同盟が結ばれたことが発端です。

そして北条氏康は自分の孫である、氏政の子、国増丸を人質として越後へ送る手はずを整えていたのです

しかし、氏康は、まだ幼い孫を雪深い越後へ人質として送るのは不憫だと、
自分の息子で他家に養子に出していた三郎に目をつけます。


北条三郎は、永禄12年北条早雲の三男・北条幻庵(北条長綱)の娘の婿養子となったところだったのです
夫婦仲も良く、将来は北条幻庵の所有する箱根から相模にかけての
広大な所領を統括する地位にあったのです。


しかし、父氏康は三郎と幻庵の娘とを離縁させ、

上杉への人質として差し出したのでした。


戦国の習いとして、姫君が人質として他家へ嫁がされるのは常識でしたが
嫡子ではない七男坊の行く末も、惨めで哀れなものだったのです。


三郎は、美しい容姿とはうらはらに幼少時代は恵まれておらず、
幼児のころより早雲寺に預けられ、長じて武田の人質として信州で過ごしたとも言われています。

前々回の大河ドラマ「風林火山」でも描かれていた
武田、今川、北条の「三国同盟」での人質として、です。

その後、北条と武田の同盟関係が決裂されたとき
無用になった人質・三郎は、小田原へ返されたといわれています(異説あり)


北条幻庵の婿養子となりやっと掴んだ幸せな家庭を無理やり引き裂かれ
越後の上杉家へ送られたのは、亀元元年(1570)、三郎17歳の時でした。

しかし上杉謙信は、義の武将でした。

名門北条家の面目に配慮し、三郎を人質としてではなく、自分の「養子」として迎えたのでした。しかも、自分の旧名である「景虎」という名前まで与えて・・・

まさに破格の厚遇でありました。


しかし謙信には、この時すでに甥の上杉景勝という立派な養子がいたのです。

北条三郎が17歳で越後の春日山城へ入ったとき

上杉景勝は16歳、樋口(直江)兼続は11歳でした。

年恰好の似通った二人の後継者の間で、家督争いが勃発するのは必然とも言えたのです。


まったく、謙信のような天才でも、道を誤ることがあるのです。
しかも遺言も残さなかったという、不覚の事態。


謙信は、景勝が越後国主となり、景虎を関東管領とする腹づもりだったのではないかと言われており、
二人が手を携え上杉家を守ることを信じていたのでしょう。

だから、景勝の妹、華姫を景虎に娶らせ、二人の血縁関係を構築したと思われます

しかし、世の中、きれいごとで回るほど甘くはありません。


上杉家と何の血縁関係もない景虎は、それだけで、不利な立場にありました

ところが上杉家中で景虎は、景勝に勝るとも劣らない人気があったのです
上杉景信・本庄秀綱・北条高広、柿崎晴家など、上杉家を支える重臣からの支持を得ていました。


重臣からの支援を取り付けている故に
越後国主の地位への野望を抱くことは自然なことでありました。


何故、景虎は、景勝に匹敵するほどの支持を得たのでしょうか?


もちろん、影虎が美少年という理由で支持したのではありません。

名門北条家に生まれながらも不遇な少年時代をすごした故、
景虎は、温厚で人当たりの良い好青年なのでした。



名門の人質とはいえ、当家と実家との関係が悪化すれば、
当然殺されることも覚悟の毎日を過ごしてきた三郎は、
愛想良く振舞うことでしか、自分の身を守れなかったとも言えます。




一方上杉景勝といえば、

子供のころより、仏長面で無愛想・口数も少なく、強面で周りに睨みを効かせるような
近寄りがたい雰囲気のある青年であったため、誤解を招くことも多々あったようです。

景勝自身は、不器用ながらも情に厚く器も大きな男性であったのですが、
故郷から離れた上杉謙信のお膝元・春日城内では、
景勝という人物の本当の器を知るものはまだ少数であったのでした。


そして二人の義父・上杉謙信といえば、二人を平等に愛していたようです。


上杉景勝は、謙信の唯一の血縁で信頼もしていた姉の息子でもあり
幼少より目をかけ、手塩にかけて育てた甥っ子でした。
また、上杉家の軍役帳に、景勝が筆頭として記載されている点などから、家督を譲るつもりであったと
言われています。


そして、人質として越後へきた三郎・景虎についても
その美しい容姿だけでなく教養、そして武勇と、その優れた資質を大いに認め、
春日城で本丸(実城)に最も近い二の丸に住まわせていたなど、
景虎に跡目を継がすのではないかとの噂が広まる原因ともなりました。


天正6年(1578年)、謙信が急な病に倒れ、意識の無いまま没します。



性格も容姿も反対の二人の青年が、越後国主の座をかけて激突するのは
上杉謙信が病没したわずか2日後であったといわれています。


「御館の乱」と呼ばれる家督争いは越後を二分し、血で血を洗う抗争となりました。




謙信は、愛した養子二人が争い血を流す様を想像できなかったのでしょうか?

本能寺の変での、「信長公の隙」といい、

天才であるが故、自分以外の人間への過信もあったのかも知れません。


PS
この記事は、大河ドラマ「天地人」感想 「勝手に補足コーナー」の拡大版です。
「御館の乱」についても、拡大版で別途記事にしようかと思ってます(5000字の壁対策です)



写真は「緋羅紗陣羽織」 (上杉神社蔵)
上杉家に伝わる二領の「緋羅紗陣羽織」のうちの一領。
最上質の猩々緋羅紗の表地に牡丹・鳳凰・雲文の黄色の緞子地を裏地にとりあわせいます。
上杉家の美意識の高さが現れた陣羽織です。