ご両親のどちらかが余命宣告を受けた

というお話を伺う機会が、
このところ、
立て続けにありました。

迷ったのですが。
かなり。

20代の頃、
私が体験したことと、
感じたことをお話してみようと思います。

私には、現在の両親の他に、
生みの親がいました。
交流もありました。
その人たちが両親だと教えられたのは、
小学校4年生のときだったと思います。

20代の前半、
その両親を相次いで、
事故で亡くしました。

本当に
突然のことでした。


生みの父が亡くなった時は、
一人暮らしをしていて部屋に電話がなく、
時々、公衆電話を使っていました。

ある日、
買い物の帰り道、
何となく公衆電話が気になって、
実家に電話をしました。
そして、
生みの父が事故で亡くなったことを
聞かされました。

買い物袋を下げて、
札幌の南郷通りをボロボロ泣きながら、
帰りました。


生みの父のお葬式が済んでしばらく経った頃、
夜、突然に、
見知らぬ人たちが、
一人暮らしの私の部屋に訪ねてきました。

生みの母が事故にあい、
危篤状態にあること。
自分たちは加害者の会社の者で、
私を病院まで連れて行くために来たのだと、
告げられました。

取るものもとりあえず部屋をでて、
病院に向かう高速道路から見下ろした夜景の美しさを
未だに忘れられません。

生みの母は、
生みの父の四十九日のその日に、
息を引き取りました。

生みの母は、
病院に駆けつけた時には既に意識はなく、
沢山の管に繋がれて、
死臭がどんどん強くなっていき、
やがて、
亡くなりました。
閉じてむくんだ瞼から、
涙のような、体液のようなものが、
沢山沢山、溢れていました。
なんで「泣いて」いたのかなぁ、と、
今でもふと、思います。

生みの母が亡くなってしばらくした頃、
亡くなる少し前に、
私の職場に顔を出してくれていたことがわかりました。

当時私は喫茶店で働いていて、
そこは、
背の高い木に囲まれていて、
高い吹き抜けの大きな窓のあるお店でした。

生みの母は、私が休みだと知ると、
ひとりのんびりとお茶を飲んで、
帰ったそうです。

亡くなった時のことよりも、
お葬式の時のことよりも、
その、
職場で会えなかった日のことを思うと、
ひとりでお茶を飲んでいた母を思うと、
今でも、
どうにもならない気持ちになって、
涙が溢れます。


私自身も日頃忘れていますが、
人は必ずいつか、死にます。
それは、
今日か、
明日か、
ずっと先か、
分かりません。

私は思うのです。

余命宣告というのは、
神様から与えられたギフトなんじゃないのかなぁ、
って。

ありがとうって言えなくてもいい、
ごめんねっていえなくてもいい。

もちろん、
さよならも言えなくていい。

心の中で、
色んな思いを持って過ごせる時間。

一緒に過ごせる時間が、
少しでも長く続きますようにと、
意識しながら過ごせる時間。

それが与えられるこを
とっても羨ましく思っています。


もし、今、
辛い思いをされている方が、
ご不快でしたら、
本当にごめんなさい。


大切な友人たちへ。
辛くて苦しくなったら、
いつでも遊びにきてね。
何にも言わなくていいから。
一緒にごはん食べたり、
お茶したり、
しようね。
と、伝えたいです。


先日、
思わぬところで、
亡くなった生みの母からのメッセージを受け取ることがありました。
とってもあったかい、
愛に溢れたメッセージでした。

メッセージは、
受け取る準備が出来たとき、
一番受け取りやすい形でちゃんと届けられること、
ほんとうにすごいなぁ、
と、思いました。


この記事を書いてまた、
私は自分がいつか死ぬことを忘れて、
過ごすのだと思います。
でもそれもまた、
幸せなことなのだと、
思います。


お付き合い下さって、
ありがとうございました。