今日は、スピ系の話題で、しかも長文なので、
興味のない方はスルーしてくださいまし。

ちなみに、
興味のない方にもある方にも、
自分の考えを押し付けたりはしないので、
ご安心くださいね^^


さてと。

書きたいことが溜まりに溜まってるので、
何からいこうかなぁ、
という感じなんですが。


輪廻転生


って。
私、あるんじゃないかな?
と思っています。

魂は、あの世とこの世を行ったりきたりしながら、
体を生きたり、魂だけになったりしながら、
「永遠」を生きているんじゃないかと。

ひとつの体の一生には、
実は隠れテーマみたいのがあって、
前回はこれをテーマに生きてみたから、
次生まれる時には、このテーマがいいな、
的な感じで、
ゆっくりと成長をしていっているんじゃないかと、
思っています。


さて。
現在はモンゴル在住のみほちゃんの瞑想会で。

私。

自分が胎児だった頃のことを思い出しました。

ホントかウソかは、この際脇に置いといて。
そのとき「私が感じたこと」を今日は書きたいと思います。



深く深く瞑想に潜っていき・・・、

真っ暗い羊水のなかでぷかぷか浮かびながら、
胎児の私は、
自分が「望まれていない子だ」
ということを感じていました。

実は、そのとおりのことが現実にあって、
私は、養女として育ちました。

心のどこかで、うすうす、
もしかしたら、そうだったんじゃないのかなぁ、
と感じていたことを
スッパリハッキリ告知されちまったぜ、
ってとこです。

あっ、そうは言っても、
養父と養母である現在の父と母は、
惜しみない愛情を私に注いでくれたから、
基本、大丈夫なんだけどね。


ところで。

自分で自分を認めたり、愛したりできる感覚のことを
「自己肯定感」
というのだそうで。

「自己肯定感」の高い人ほど、
無理なく愛を発信することができるのだそうです。

イメージでいうと、
残りが少ないコップの水を分け与えてしまったら、
すぐ空になって苦しくなってしまうけど、
なみなみと溢れてるコップの水を分け与えるのは、
ぜ~んぜん苦にならない、
って感じかもしれません。



で、その、自己肯定感。

ここ数年、

私は自分で自分が大嫌い→自己肯定感が低い

ことを何度も何度も、
複数のスピ系の方に、指摘されまくってきてて、
私実は、
そのことをとてもとても、気にしていたのです。

ちゃんと愛情を発信できてないんじゃないかなぁ?って。



でもさ。

「自分は望まれていない」
ということを知っていながら生まれてきた私。

愛を感じられずに胎児のころを過ごしていて、
自己肯定感など持てる訳がない。

そんなの仕方ないじゃんっ!

ねぇ。

瞑想会で、胎児の頃を思い出しながら、
私は妙な「逆説的?自己肯定」の気持ちを味わったのでした。



更に。

瞑想をして、
胎児だった頃のことを感じながら。

望まれずに生まれてきて、
自己肯定感が低くて苦しんでいても、
沢山の愛情に囲まれて幸せに生きることができる

ということを学ぶために、
今回は、
生まれてきたのかもしれない・・・。

と、私、思ったのです。



父や、母や、夫や、娘や、友人たち。
私のことを大切にしてくれる、大切な方たち・・・。

みんなのおかげで、
私は今、幸せを感じられるんだなぁって、
感動しちゃいました。


いっぱい泣いたよ~。



自分を認めなくてはならない、
肯定しなくてはならない、
と思うのって、
なかなかどうして、ツライ。

そんな私をラクにしてくれたのは、

「私って、自分を認められてないよね~」という肯定感でした(笑

ちゃんちゃん。



ウソかホントかは、私にも分からない。←おいおい

ただ、瞑想中に感じたことの、お話でした。