10数年ほど前
義父は年を重ねるごとに
少しずつ社会から離れ
自宅で過ごすことが多くなっていく
70過ぎた頃
義父は胆石を取り除く手術の為に
入院すると認知症状が顕著に現れた
病院のベットで一人寝ていると
カーテンに囲まれた景色が
宗教の施設に入れたれたのではと
不安と恐怖を抱えて
早朝病院から出ていってしまった
病院から連絡をもらい
夫の実家で義母と
ただ待つしか出来なかった
長い長い一日だったのを
記憶している
その日
警察に保護されて自宅に戻ってきたのは
夜遅くになってからだった
調子の良い日はその日のことを
覚えていた義父は語ってくれた
記憶が曖昧な時は
「自分はいったい何があったんだ、、教えてくれ」
不安そうに聞いてくることもあった
ゆっくりと本当のことを伝えると
「正直に教えてくれてありがとう」
そう言ってくれたこともあった
元小学校教師だった義父は
電車に乗って
初めて働いた小学校を探していたのだとか
電車に乗り夢のような気持ちだったこと
その時のことをそんな風に話してくれた
着て行ったはずの上着は
どこにいってしまったのか
無くなっていた
途中生まれ育った
実家にも向かっていたのだそう
徘徊ではない
目的を持って歩いていた義父の本当の声
義母はそれ以降
義父から目を離さないように
過ごす日々が始まった
血小板減少性紫斑病(血液が止まりにくい)
も患っていたこともあり
転ばせないように必死だった
熱が36.9度でも
解熱剤を飲ませる義母
飲ませなくても大丈夫だよと言うと
「熱がでたらいったい
誰が世話をするの!?私なのよ!」
車で1時間の距離を通う私は
何も言えなかった
認定を受けさせたくても
世間の目を気にする義母は
「お父さんはボケちゃおらん!!」
そう言って怒りをぶつけてきた
あれはしてはダメ
これをしてはダメ
外に行ったらダメ
いつしか実家に行くたびに
新聞を広げる姿ばかりになっていった
否定ばかりの生活は
義父の怒りの感情を膨らませていた
何年もかけてようやく介護認定を
受け入れてくれた
デイサービスで
義父は手や足を出すようになり
他の利用者さんへの危険もあり
緊急措置として
特別養護老人ホームへ入所した
ちょうど
今頃の時期だった
平成19年私の働く町
愛知県大府市で起こった事故
認知症の男性が線路内に入り
列車にひかれ亡くなった
鉄道会社は遅延損害金を求め
一審は妻と東京で暮らす長男に
二審は妻のみに賠償請求
非常な判決に世間から声があがり
最高裁にて賠償責任なしとの判決
当時要介護4の認定を受け
長男の妻が東京から実家近くに住み
サポートする生活の中でのこと
家族の見守りは一瞬の隙間も許されない
監禁しなければ
事故は防げなかった
実名をあげて
矛盾を訴えられた行動
世間からも多くの声があがり
賠償責任なしとの判決に至ったのだそう
9人で一人を支えれば良かった時代から
これからは1.2人で一人を支えていく時代
2025年
75歳以上の後期高齢者の認知症患者数は
全国の小学生の人数よりも
多くなるのだとか
社会全体で見守る
認知症でも安心して暮らしていける社会が
優しいまなざしから
一人ひとりの心配りから
出来る世界になっていきますように
