もしも私が・・・
ある日、私が帰ってこなくなったら、
探したのに見つからなかったら、
お浄土に行ったんだ、と思ってください。
あるいは、どこかに転がっていたら、
ご迷惑をおかけしますが、
自分ではどうにもできないので、
葬ってくださるようお願いします。
お骨がないときは、
お墓に入れてやれなくてかわいそう、
と思われるかもしれませんが、
お墓に入ろうと思って生きてきたわけでは
ありませんから、どうぞ気になさらないでください。
もしくは、私を葬(ほうむ)ってくださることになる方、お世話になります。
本当にありがとうございます。
どんな最期を迎えるか誰もわかりません。
が、問題は死にざまではなく、
生きざまだ、とお聞かせいただいています。
苦しんだとか楽だったとか、
私が死んでも、そんなことは話題にしないで
ほしいです。
できれば、私の良いところを思い出して、
お褒(ほ)めいただければ幸いです。
もし、ありがたいことに葬式をしてやろうということになり、でもなんにもなしじゃあ、
と残念に思われたならば、
「南無阿弥陀仏」と書いた紙を張って、
手を合わせ、「なむあみだぶつ」と
称えてください。
紙がなければ、「なむあみだぶつ」の声だけで、もう本当にうれしいです。
その声の中に私がいます。
驚かないでください。
私と言っても、私はもういません。
それは仏さまという存在です。
「なむあみだぶつ」は不思議な言葉で、
その声は、称えた人の声であると同時に、
仏さまの声でもあります。
私も、死んだら即!仏さまの仲間に
入れていただくので、
「なむあみだぶつ」の中に私の声がする、
と申しあげました。
そんなことはない、これは自分の声で、
誰の声でもない、と思われますか?
自分ひとりで生まれてきたわけでもなければ、自分ひとりで育ってきたわけでもありません。声だってそうです。
ざっと申せば、お陰様でで生きているのです。この私も、お陰様の塊なのです。
さて、不思議な言葉「なむあみだぶつ」
の意味はというと、こちらからいえば、
「おまかせします、阿弥陀さま」ですが、
それは阿弥陀さまからの「なむあみだぶつ」に応えた言葉です。
阿弥陀さまからは、こうおっしゃっています。
「まかせなはれ」
関西人の私にはそう響きます。
ともかく、私はそう言ってもらったので、
「ありがとう、阿弥陀さま」と、
私の全部をおまかせしているわけです。
いつでもどこでも、阿弥陀さまは
私を見まもっていてくださいます。
そして、いのちが終わるその時には、
阿弥陀さまの国、さとりの世界に
私を生まれさせ仏さまにしてくださるのです。 仏さまになったならば、
今度は生きている人々を、
見まもっていきます。
だから、行ったといっても、
実はすぐに帰ってきているのです。
帰ってきたら、阿弥陀さまと同じように
働きます。
阿弥陀さまの働きとはどんなものかというと、生きている人をともかく
尊敬してくださるのです。
悲しんでいる人がいたら、
とことん尊敬してくださり、
涙する人がいたら、
とことん尊敬してくださる。
下を向いていても、尊敬してくださっている。
前を向けなくても、上を向けなくても、
とことん尊敬してくださっているから、
安心してうつむいていていいのです。
もし、身近に、小さい人がいて、
父親や母親がいなくなってしまった人がいたら、不思議な言葉「なむあみだぶつ」を称えてごらん、聞いてごらんと声をかけてください。
それは、仏さまの声だよ、そして、お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんの声でもあるんだよ、と。言葉の意味を問われたら、「ありがとう」ということだよ、
とお話しください。
人の言葉は時にわずらわしいことがあります。意味はわからなくても、
慈しみの声を響かせて、
そこに光あることを聞いていってもらいたい、と願います。
南無阿弥陀仏の上の言葉。
南無阿弥陀仏は不思議な言葉という
僧侶のお寺のお話です。
私は母方のおじいちゃんに、
生前お寺からのお話を中学の時に
聞きました。
それは今でも覚えています。
南無阿弥陀仏とは、
いつでも、どこでも、聞いてるよ、
知ってるよ、見ているよ
という仏様の心が入っているのが
南無阿弥陀仏という言葉だと。
生きてる限り、少しでも、
こういう気持ちを思いながら日々過ごす
と、気持ちも多少なりとも、
楽になる時があります。
辛い時、悲しい時、うまいこといかない時
唱えてみると気持ちも変わるかもしれません。
