忘れないうちに旅行記を。
10月25日、非常に暗い職場の問題を抱えたまま眠りについた我々は、26日の朝、8時35分のエアアジアバリ島直行便に乗った。
エアアジアの美しいキャビンアテンダントにテンションが少しづつあがる。
そして同日15時にバリ島のングラライ空港に到着。時差が1時間だから日本は16時。得した気分。
入国審査は南国らしくのんびりやってるから外に出るまで2時間あまり。
迎えの人がどこにいるかわからず、ツアーのカスタマサポートに電話をしたら、流暢な日本語で教えてくれた。昔の演歌歌手のようなおじさんの迎えでホテルへ。
道中、バリ島らしい様々な建造物にいちいち感動する。
チェックインを済ませ、歩いてレギャンビーチへ。少し曇ってたけどきれいな夕焼けを眺めて感無量。
その後、海岸沿いを歩いてハードロックカフェのあるクタビーチを目指して散歩。
右も左もわからないので、ビーチウォークという大きなショッピングモールの中でとりあえず夕食。
せっかくバリ島に来たのだからとミーゴレンを食べる。これが激ウマ。
今回の旅行、食べ物は色々あったが、ミーゴレンだけはどこで食べてもハズレがなかった。
そこからホテルに戻る途中に楽器屋さんを発見。
何気なく寄ってみたらそこのご主人、アディさんと仲良くなり、セッション。太鼓やらウクレレで盛り上がった。ご機嫌で帰路へ。途中のバーでココナッツジュースを飲んだらこれがゲロマズ。後でわかったのだが、あまり熟してない方がいいみたい。
宿に帰り、シャワーを浴びたら、お湯が出ない。「南国だからお湯が出ないのかな」と思い、冷たい身体のままあがる。市原さんがその後入ったら「お湯出るよ!」
見たらハンドルを右に回すとお湯だった。私は思い込みで左に回すものだと思ってたからずっと水だったわけだ。再度暖かいシャワーを浴びて就寝。
2日目は朝からクタ、レギャン地域の散策。
激しく鳴り響くクラクションと、縦横無尽に走り回るバイクと、しつこいくらいの客引きの喧騒の中、あちこちでお花やお供え物を飾り、神に祈りを捧げる人を見かける。美しい民族衣装。美しい所作。バリ島に来たんだと改めて実感する。
お昼をどこで食べようか迷っていたら、たまたまババガンプを見つける。フォレストガンプ好きの私としては見逃せない。
しかし、中に入ったら、あまりの現地の物価との違いにびびり、挙動不審になっている私たちに、爽やかな笑顔で近づいてきた青年がいた。
彼がグスティ。
シガラジャの生まれだと言う彼に、数少ない知っているバリ語で話してみた。「オムスワスティアストゥー」この言葉は今回の旅行中にかなり役に立った。バリニーズで、ヒンドゥ教の方だと、ほぼ笑顔で胸の前で合掌して答えてくれ、「どこで覚えたのか」と聞いてくれる。いい話のきっかけになった。
彼ともそんな感じで色々話をし、今回の旅行中ずっとお世話になることになる。
その後、また昨日行ったショッピングモールに行き、謎のカエルの卵のようなおやつを食べたり、ハードロックカフェをのぞいたりした。
ホテルに帰る途中で洋服屋さんをのぞくと、とてもいいワンピースがあったので、購入を決意。他にビンタンビールのロゴ入りランニングと、バディック柄のアロハシャツを買うので「ミンタディスコン」と値切ってみる。けっこう粘って、かなり安くしてくれたのだが、おばちゃんの顔からは笑顔が無くなった。
その後ホテルに帰り、着替えてから調べておいたレストラン、「ワルンインドネシア」に行くことにする。
ついでだからさっき買ったワンピースを着て、値切ったおばちゃんに見せに行ったら、満面の笑顔で「かわいい」と日本語で褒めてくれた。
ワルンインドネシアは、レストランというより食堂だったが、何を食べても美味いし安かった。
食べていたら、いきなり可愛らしい少年がブレストやキーホルダーを手に持って近づいてきた。紙のカードには、「私は耳が聞こえません。これらを作って売ることで生計を立てています」と書いてあった。
木のキーホルダーには気に入ったものがなかったので、牡牛座のブレストを買うことにした。安っぽいからすぐに壊れるだろうと思ったし、50,000ルピアは高いなと思ったが、あまりに可愛らしい少年だったので寄付のつもりで購入した。右の耳がつぶれていたが、本当に聞こえないかどうかはわからない。
その後彼は全ての席を回っていたが、ほとんどの西洋人は彼の顔すら見ようとしなかった。
バリ島滞在中、何度か物乞いの人に会ったが、彼らにお金や物を渡していたのはほとんど観光客ではなく、地元の人だった。貧乏の辛さを一番良く知ってるのは貧乏人だからだろうか。
そんなこんなで満腹になり帰路へ。
途中、いたるところでロックバンドやアコースティックバンドが演奏をしている。
ひとつのバーのバンドの演奏に足を止めていたら、「日本の曲できます!入って」と呼び止められ、入ってみた。
すると「いとしのエリー」を歌ってくれた。「他にリクエストは?」というので、「It’s so easy 」と言ったら「AC/DC」と聞き間違いされ、「日本人からリクエストされたのは初めてだ」とか言って演奏始めたので訂正しなかった。
かなり上手かった。色々な国のお客様の喜ぶ曲を演奏していた。プロだなと思った。
音響はあまり良くないが、様々なミュージシャンが毎晩演奏していて楽しそうだった。私たちもいつか演奏したいねなどと話していたら、1人の美人さんが歌い出した。とてもお上手だったので終了後話してみると、プロとしてヨーロッパで歌ってたことがあると言う。離婚して一人で男の子を育てている。もっと歌う場所が欲しいと言っていた。スラバヤ生まれだと言う彼女に、ユーミンの「スラバヤ通りの妹へ」という曲を教えてあげた。「いい曲ね」と言うので、YouTubeにもあることを伝えて別れた。
旅行中知り合ったみんなが「日本に行ってみたいけど、高くて行けない」と言っていた。
2日目終了。
3日目は、バリ島一日ツアーを申し込んでいたので、朝からガイドのアリアさんと運転手のナナさんが迎えに来てくれた。アリアさんは自称ジゴロで、各国の女性たちと関係を持ってはお金をもらっていて豪邸を建てたと話していた。「僕のは20センチある」が口ぐせだったので、私たちは「20センチのアリアさん」と呼ぶことにした。
バトゥアン寺院、ゴアガジャ遺跡、テガラランの棚田(ここで市原さんは巨大ブランコに挑戦)キンタマーニ高原などを見て回り、ウブドではかなりショッピングの時間があったが、クタとは違い、高級な店が多かったので娘のリクエストだったガムランボールだけ買い、ずっと食べたかったバビグリンの有名な店「イブオカ」で食事をしたが、揚げた肉も皮も固くてあまり美味しくなかった。
その後はケチャのショーやガムラン演奏などを堪能して帰路へ。途中、ドリアンを食べたことが無いと言う私たちのために、道端の屋台に寄ってくれた。初めてのドリアンだったが、一個は食べきれず、運転手のナナさんに食べてもらった。市原さんはその後ドリアンの匂いがするたびに悶絶していた。
道端の木のいたるところにドリアンやココナッツが実り、埃まみれの家の軒先にはカゴに入ったニワトリがいた。昔の日本の田舎の風景みたいだった。その屋台には、まだ4歳だと言う女の子がいて、彼女は耳が聞こえないんだと20センチのアリアさんが言っていた。アリアさんは、踊りをしている美しい娘さんやまだ小さい息子さん、豪邸の写真を見せてくれた。
彫刻師だがそれだけでは食べていけないのでガイドをやっているそうだ。英語が話せないナナさんは、最後にバリ語で挨拶すると笑ってくれた。歯がきれいだった。
こういうツアーにありがちだが、途中シルバーの店やジャコウ猫のコーヒー店に寄ってくれたがどこも市価の3倍から4倍もする店で、私たちは買わなかった。マージンとかあったのだろうが、仕方ない。
その夜は、市原さんがケチャのビートでずっと騒いでいて「チャチャチャ」おじさんと化しており、うるさかった。
3日目終了。
4日目。昨日の朝ごはんをホテルで食べて大失敗したので(不味いわ高いわ中国人がうるさいわ)
近所のカフェに行きアボカドのスマッシュサンドと南国フルーツの盛り合わせを食べる。幸せだった。
その後はお土産を買いに、現地の人御用達のスーパーマーケット、「アグンバリ」へ。ここはとにかく安くて品数豊富。クタ地区の3分の1ほどの価値で手に入る。優秀な店だった。その後、同じような店「クリスナ」へ。こちらはバリ島のしまむらみたいな感じで、衣類が安かった。
疲れたのでフードコートで一服。
バリ島はどこでもタバコが吸えるのが有り難い。
ここでもバリニーズのおじさん(名前忘れた。)と色々話しをする。額と胸に付けているお米の意味や毎日のお供えとお祈りの意味、バリ島の歴史などを聞かせてくれた。
第二次世界大戦で日本の統治下にあったこともあるバリ島の老人はみんな少しだが日本語を話せる。
ここで亡くなった兵隊さんもたくさんいる。そんな話しを聞かせてくれた。
ここのコーヒーとココナッツジュースは美味しかった。
アグンバリとクリスナへの往復路は観光客が誰もいない路地ばかりで、普通の民家の庭などが見れて面白かった。
午後はレギャンビーチへ。
イスとビーチパラソル、一日中借りて二人分100,000ルピアだとしつこく言ってくるおじさんに負けて借りることにする。
ビンタンビールとサテを食べる。ここのサテはめちゃ美味かった。
おじさんの名前はボブさん。
33年間このビーチで働いてると言ってた。息子が日本人と結婚してて台東区に住んでると。孫に会いに行きたいが高くて行けないと話してた。
ガイドのアリアさんの話しをしたら、バリ島にジゴロなんていない。そいつはインチキだと怒ってた。
ビーチにはたくさんの物売りの人がいて、マッサージのおばちゃんもいた。外見は70代くらいに見えたが聞いたら58歳だと言う。それが本当なら、どんだけ苦労してるんだよという老け方だった。
おばちゃん疲れているみたいだったので、私と市原さんでマッサージをしてあげたら、「かわいー、かわいーよ!」と喜んでいた。
その後もボブさんとマッサージおばちゃんがちょくちょく来ては色々話しをしていった。
そのうちババガンプのグスティとそのおじさん、アダムもビーチに会いに来てくれて、私たちのところだけわしゃわしゃと宴会みたいになってた。空にはカイトが浮かび、それを見ながらイズの「オーバーザレインボー」を聞いた。市原さんが「きっとこの光景をまた時々思い出すだろうね」と言った。
その後、とてもとても美しい夕日を見た。忘れられない一日になった。
グスティと夕飯を食べようということになって、またワルンインドネシアへ。
グスティの生まれ故郷はクタから3時間も離れていて、故郷には3歳の娘と美しい奥さんがいる。
田舎だから働くところがなく、出稼ぎに来ていて、1カ月に一度くらいしか帰れないと言っていた。
日本は豊かな国で羨ましいと言うから、日本では毎年たくさんの若者が自殺すると言ったらとても驚いていた。彼も昨年、娘が喘息の発作を起こしているのに病院に連れていくお金が無くて、もう死にたいと思ったと話してくれた。でも親戚の助けでなんとかなったから、自分も誰かのために助けられることがあったらいいと思うと言ってた。
「カルマ」を信じていて、自分が誰かにした親切はたとえ直接じゃなくても巡り巡って自分にまた帰ってくると。日本にも同じ考え方があり、それは「情けは人のためならず」という言葉だと伝えた。
最終日、ガイドしてもらう約束をして別れた。
そして最終日。
ホテルから空港への送りを断る電話を入れる。知り合ったばかりの人の車に荷物を全て預けてガイドしてもらうことは一抹の不安もあったが、市原さんの「殺されなきゃいいべ」の一言で決意。
ホテルから一番近いカフェに行ってコーヒーを頼んだらめちゃウマ。早く来てれば良かったと後悔しつつ、迎えを待つ。
グスティとアダムが宿を間違えるトラブルもあったが、チェックアウトを終えて車に乗り込む。
今回諦めていた、スミニャックとウルワツへ。ウルワツでは猿にメガネを取られ、取り返してもらったおばちゃんに20000ルピア取られた。途中、ヒンドゥーの巨大な塔も見学。空港近くのスーパーマーケットにも寄ってもらい、最終日を満喫して送ってもらう。
彼らは始終親切だった。
別れ際、泣いている市原さんを見て、グスティも涙ぐんでいた。
本当にいい子。
空港で時間がかなりあったので最後のミーゴレンを食べ、喫煙所へ。
こちらではあまり評判の良くないジャワ人のブルーバードタクシーの運転手と話しをする。
彼のお姉さんは福島に嫁ぎ、震災の前年に癌で亡くなったそうだ。その後震災で義理の兄と親戚が6人亡くなったと話していた。
日本に行ったことがあるが、きれいな国だった、しゃぶしゃぶが美味しかったと話していた。