2/4
節分の夜だ。
一人で豆をまくのもなんなので、まかない。
恵方巻きも、最近の関東における突飛で暴力的な流行りっぷりに
広告代理店ががっしり噛んでいそうな予感がビンビンするので
「俺は絶対に食べないからな! ざまあみろ!」
というポリシーを持ってここ数年生きてきたのだが
ふらりと寄った閉店間際のスーパーにて、100円で叩き売られているのを発見。
そりゃあ次の日になったら絶対に売れないよな。
そんなことを思いながら何気なしに伸びる右手を
左手がひし、と掴む。
「バカ!」
「広告代理店的なものを、お前は憎まなくてはいけないんだろうが!」
「こんなもの、関東ではコンビニとスーパーで売るためにアイツらがキャンペーン張っただけで、なんの伝統的民俗的根拠も無いんだよ!」
「それどころか、発祥とされる関西地方だって、どうせそう遠くない時代に広告代理店的な奴が考えだした、そこそこ新しい風習なんだろうよ!」
「お前が、怪談サークルの会長のお前が、 そしてなにより広告代理店的なものが大嫌いなお前さんが恵方巻きなんてものを買うのかい? ふざけちゃあいけないね」
最後の方はブラックジャックっぽい口調で左手に諭される僕。
しかしそんな信念より、貧困の胃袋へと、心の天秤が傾いていく。
確かに恵方巻きなんていう資本主義の豚のエサは買いたくないが
だからといって100円で1食まかなえるというのは魅力であり
いや、でも、そんな風にお得感とかファストフードとかの文脈で考えること自体
すでに資本主義の勝ち組の奴らのフィールドに足を踏み入れている訳だから
決してそこに毒されてはいけないのだが
もしあなたが、節分の深夜
戸山公園の中を
唇から海苔巻きをぷらぷらとぶらさげながら
南南東の方角を向いて歩き去った不審な人影を見たとしたら
それは僕だ
こんなあまりの貧乏を憐れまれたのだろうか。
人から「一陽来復」のお札を貰う。
早稲田の穴八幡で冬至~節分の期間限定にて売られているもので
冬至か、大晦日か、節分の、夜0時、恵方の方角へ向けて家の壁に貼っておくと
幸運が巡るようになって、金まわりもよくなるのだそうだ。
また、隣の放生寺に行ってみたところ
「一陽来福」というちょっと違う名前のお札も売られている。
どうも運と金の巡りが良くなるという効果はほぼ同じのようだ。
「ロッテ」と「ロッチ」の違いといえば、分かりがよいだろうか。
ただ、どちらがロッテでどちらがロッチなのかは僕には判りかねるが。
どちらにも共通するポイントは「金運に強い」というところだろう。
穴八幡と放生寺。
この二つの違い、僕には分からないながらも
一応、オカルト研究の一環として、両方の寺社ともを訪ねてみた。
すると、なかなかに面白い。
穴八幡の方では一陽来復の札について
「近年、周囲の寺社でも似たようなものが売られていますが、こちらが元祖です」
といった案内文が書かれているし

放生寺もまた
「一陽来福のお札は江戸天保年間に当山より広まったということは、人々の知るところです」
みたいな立て札があったりする。

この遠まわしに牽制しあっている感じ。
隣同士での緊張関係。
おそらく元は寺社混合で同じ母体だったものが、明治以降に分離して
それ以降、現在のような関係になってしまったのだろう。
などと勝手に想像すると
ロッテ・ロッチ関係よりむしろ
「一澤帆布」と「信三郎帆布」の対立を思い出させて
なんだか世俗的な匂いがふんぷんに漂ってきたりもする。
(あと、美味しんぼの龍々軒の兄弟も)
そもそも、どちらものお札が盛んになった時代背景を考えてみても
天保年間前後という江戸の末期に近づきつつある時流のこと
お隣ではアヘン戦争なども行われていて
着実に西欧式の近代資本主義の流れが染み込みつつあった。
国内でも、貨幣経済の興隆を背景にした天保の改革が行われた時代だったし
このお札のポイントである「金運」の重視
しかも「金まわり(来復)」という流通経済を背景にしている点などは
正にその辺りの空気を反映したおまじないである
とも言えるかもしれない。
ただ、誤解してほしくないけど
だからこそ逆に言えば現代社会にも通じるものだという意味で
「金儲けについてはご利益がありそうだ!」
みたいに期待が持ててくるねっていう褒め言葉を述べているのであって
なんか僕が変に穴八幡と放生寺を批判しているとか?
「そういうのを無邪気に昔ながらの信仰として享受するのってどうなんだろう」的な?
ちょっと俺は分かってるんだぜ風なヒネくれたことを言ってるとか?
みたいな文脈で捉えちゃう人がいたとしたら
正直、心が曲がってる。
なんか逆に、可哀そう。
わざわざ厭らしい見方をするアマノジャクというか
そんなに悪意まみれになって社会に唾吐かなくてもいいのにというか
「もっと素直に生きれば、もっと楽になれると思うよ!」
「まず、世間の上手くやれてる人たちイコール敵、とみなすのを止めたら?」
「こう言ったらあれだけど、広告代理店に変なトラウマがあるだけじゃないの? 就職活動とかで」
って、僕なんかは思っちゃうな。
まあ、そんな人なんていないと思うけど。
話を戻そう。
実は、この一陽来復のお札。
深夜の0時かっきりに貼らなければ効果がない、という
グレムリン並に厳しいルールがあるからまた厄介だ。
ここ最近、夜が早いネムネム君な僕は
途中、何度も眠りこけそうになりながらも
今年の恵方である巳午(かな、と目分量で測ってみた)の方角へと
なんとか家の鴨居に貼ることに成功する。
これで今年はなんとか、人生の最終目標である
夢の年収200万円生活のキッカケが見えてくるだろう!
できたら一回だけ、メロウじゃない真タラを買ってもみようかな……
そんな素敵な夢にまどろみながら、節分の夜は過ぎていったのだった。
そして翌朝の今日。
朝陽の射した明るい部屋で
例のお札の案内書きを読んでみたところ
驚愕の事実が発覚。
「万一、このお札が落ちてしまった場合、あるいは転居される場合、お札は神社に返してください」
ちゃんと同じところに一年貼っておかなきゃ、効果は期待できないと言うのか!
こっちは今月中に退去勧告が出てるんだよ!
まったくもって、くたびれもうけだったてこと?
僕の年収200万の人生設計を返せ!
穴八幡神社前に座り込みを決行しようかとも
そのまま神社側と激しく衝突しようかとも
そのまま流鏑馬の矢で額を射抜かれて死んだことをキッカケにして
各地で大規模デモを引き起こそうかとも奮起したのだが
冷静に考えると
そうなったら僕が完全にネットストーキングのためだけに登録している
フェイスブックとツイッターのアカウントがバレてしまい
同時に、僕が今まで行ってきた数々のネットストーキングな所業が
世間の白日の下にさらされかねない
そう我に返り
とにかく落着いて色々と調べてみたところ
「もしはがれてしまったら、良き日を選んで、貼りなおしていただければ大丈夫です」
なることが判明。
なあんだ。
ハラハラさせやがるぜ。
じゃあ問題ないことはないんだけど……
いや、でも良き日っていつが良き日なんだろう?
とも思って調べてみたところ
「いつが良き日なのかは、『神宮館 高島暦』を購入して調べてみてください」
だとさ。
よし!
こういう抜け目のなさも、ことお金関係については心強い感じでイイね。
一人で豆をまくのもなんなので、まかない。
恵方巻きも、最近の関東における突飛で暴力的な流行りっぷりに
広告代理店ががっしり噛んでいそうな予感がビンビンするので
「俺は絶対に食べないからな! ざまあみろ!」
というポリシーを持ってここ数年生きてきたのだが
ふらりと寄った閉店間際のスーパーにて、100円で叩き売られているのを発見。
そりゃあ次の日になったら絶対に売れないよな。
そんなことを思いながら何気なしに伸びる右手を
左手がひし、と掴む。
「バカ!」
「広告代理店的なものを、お前は憎まなくてはいけないんだろうが!」
「こんなもの、関東ではコンビニとスーパーで売るためにアイツらがキャンペーン張っただけで、なんの伝統的民俗的根拠も無いんだよ!」
「それどころか、発祥とされる関西地方だって、どうせそう遠くない時代に広告代理店的な奴が考えだした、そこそこ新しい風習なんだろうよ!」
「お前が、怪談サークルの会長のお前が、 そしてなにより広告代理店的なものが大嫌いなお前さんが恵方巻きなんてものを買うのかい? ふざけちゃあいけないね」
最後の方はブラックジャックっぽい口調で左手に諭される僕。
しかしそんな信念より、貧困の胃袋へと、心の天秤が傾いていく。
確かに恵方巻きなんていう資本主義の豚のエサは買いたくないが
だからといって100円で1食まかなえるというのは魅力であり
いや、でも、そんな風にお得感とかファストフードとかの文脈で考えること自体
すでに資本主義の勝ち組の奴らのフィールドに足を踏み入れている訳だから
決してそこに毒されてはいけないのだが
もしあなたが、節分の深夜
戸山公園の中を
唇から海苔巻きをぷらぷらとぶらさげながら
南南東の方角を向いて歩き去った不審な人影を見たとしたら
それは僕だ
こんなあまりの貧乏を憐れまれたのだろうか。
人から「一陽来復」のお札を貰う。
早稲田の穴八幡で冬至~節分の期間限定にて売られているもので
冬至か、大晦日か、節分の、夜0時、恵方の方角へ向けて家の壁に貼っておくと
幸運が巡るようになって、金まわりもよくなるのだそうだ。
また、隣の放生寺に行ってみたところ
「一陽来福」というちょっと違う名前のお札も売られている。
どうも運と金の巡りが良くなるという効果はほぼ同じのようだ。
「ロッテ」と「ロッチ」の違いといえば、分かりがよいだろうか。
ただ、どちらがロッテでどちらがロッチなのかは僕には判りかねるが。
どちらにも共通するポイントは「金運に強い」というところだろう。
穴八幡と放生寺。
この二つの違い、僕には分からないながらも
一応、オカルト研究の一環として、両方の寺社ともを訪ねてみた。
すると、なかなかに面白い。
穴八幡の方では一陽来復の札について
「近年、周囲の寺社でも似たようなものが売られていますが、こちらが元祖です」
といった案内文が書かれているし

放生寺もまた
「一陽来福のお札は江戸天保年間に当山より広まったということは、人々の知るところです」
みたいな立て札があったりする。

この遠まわしに牽制しあっている感じ。
隣同士での緊張関係。
おそらく元は寺社混合で同じ母体だったものが、明治以降に分離して
それ以降、現在のような関係になってしまったのだろう。
などと勝手に想像すると
ロッテ・ロッチ関係よりむしろ
「一澤帆布」と「信三郎帆布」の対立を思い出させて
なんだか世俗的な匂いがふんぷんに漂ってきたりもする。
(あと、美味しんぼの龍々軒の兄弟も)
そもそも、どちらものお札が盛んになった時代背景を考えてみても
天保年間前後という江戸の末期に近づきつつある時流のこと
お隣ではアヘン戦争なども行われていて
着実に西欧式の近代資本主義の流れが染み込みつつあった。
国内でも、貨幣経済の興隆を背景にした天保の改革が行われた時代だったし
このお札のポイントである「金運」の重視
しかも「金まわり(来復)」という流通経済を背景にしている点などは
正にその辺りの空気を反映したおまじないである
とも言えるかもしれない。
ただ、誤解してほしくないけど
だからこそ逆に言えば現代社会にも通じるものだという意味で
「金儲けについてはご利益がありそうだ!」
みたいに期待が持ててくるねっていう褒め言葉を述べているのであって
なんか僕が変に穴八幡と放生寺を批判しているとか?
「そういうのを無邪気に昔ながらの信仰として享受するのってどうなんだろう」的な?
ちょっと俺は分かってるんだぜ風なヒネくれたことを言ってるとか?
みたいな文脈で捉えちゃう人がいたとしたら
正直、心が曲がってる。
なんか逆に、可哀そう。
わざわざ厭らしい見方をするアマノジャクというか
そんなに悪意まみれになって社会に唾吐かなくてもいいのにというか
「もっと素直に生きれば、もっと楽になれると思うよ!」
「まず、世間の上手くやれてる人たちイコール敵、とみなすのを止めたら?」
「こう言ったらあれだけど、広告代理店に変なトラウマがあるだけじゃないの? 就職活動とかで」
って、僕なんかは思っちゃうな。
まあ、そんな人なんていないと思うけど。
話を戻そう。
実は、この一陽来復のお札。
深夜の0時かっきりに貼らなければ効果がない、という
グレムリン並に厳しいルールがあるからまた厄介だ。
ここ最近、夜が早いネムネム君な僕は
途中、何度も眠りこけそうになりながらも
今年の恵方である巳午(かな、と目分量で測ってみた)の方角へと
なんとか家の鴨居に貼ることに成功する。
これで今年はなんとか、人生の最終目標である
夢の年収200万円生活のキッカケが見えてくるだろう!
できたら一回だけ、メロウじゃない真タラを買ってもみようかな……
そんな素敵な夢にまどろみながら、節分の夜は過ぎていったのだった。
そして翌朝の今日。
朝陽の射した明るい部屋で
例のお札の案内書きを読んでみたところ
驚愕の事実が発覚。
「万一、このお札が落ちてしまった場合、あるいは転居される場合、お札は神社に返してください」
ちゃんと同じところに一年貼っておかなきゃ、効果は期待できないと言うのか!
こっちは今月中に退去勧告が出てるんだよ!
まったくもって、くたびれもうけだったてこと?
僕の年収200万の人生設計を返せ!
穴八幡神社前に座り込みを決行しようかとも
そのまま神社側と激しく衝突しようかとも
そのまま流鏑馬の矢で額を射抜かれて死んだことをキッカケにして
各地で大規模デモを引き起こそうかとも奮起したのだが
冷静に考えると
そうなったら僕が完全にネットストーキングのためだけに登録している
フェイスブックとツイッターのアカウントがバレてしまい
同時に、僕が今まで行ってきた数々のネットストーキングな所業が
世間の白日の下にさらされかねない
そう我に返り
とにかく落着いて色々と調べてみたところ
「もしはがれてしまったら、良き日を選んで、貼りなおしていただければ大丈夫です」
なることが判明。
なあんだ。
ハラハラさせやがるぜ。
じゃあ問題ないことはないんだけど……
いや、でも良き日っていつが良き日なんだろう?
とも思って調べてみたところ
「いつが良き日なのかは、『神宮館 高島暦』を購入して調べてみてください」
だとさ。
よし!
こういう抜け目のなさも、ことお金関係については心強い感じでイイね。