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前回、わたしの下手な詩で、現在書かれている(あるいは、わたしたちが読む)詩を、大凡三種類に分けた。詩の書き手からすると、ふざけるんじゃないという声が聞こえてきそうだが、素人の読者が感じるままに書いていると考えて許していただきたい。

その三種類とは次の通りである。
タイプA、書き始めから、作品全体の調和、あるいはまとまりを考えて書かれた詩。よって意味のつながりが重要視され、読みやすい。

その中でも、AABA、AA'BA、AAA'A、AABA'等、その作品の中での意味の流れを考えるといくつかのタイプがある。例えば、立原道造はAABA、あるいはAAA'Aが多いとか。また、中原中也はAABA、AA'BA、AAA'Aが多い。ソネット詩が多い立原道造や中原中也はわかりやすいが、そうでない荒川洋治ならAA'BA、あるいはAABA'が多いとか。このことは次の機会に別の視点からーーーその詩作品をなぜ書くか?ーーー書きたいと思う。

なぜなら、抒情詩は意味の流れが大切であるから意味の流れが重要になる。

しかし、意味を大切にするこのタイプの詩は少なくなっているように思う。直感で45%。『現代詩手帖』の年一度の『年鑑』を読んでのイメージである。

タイプB、二番目は、まとめることを考えずに、言葉の世界のつながりに重要性をおいた場合。意味のつながりよりも言葉の世界の調和が重要視される。その言葉は、書き手の言葉の用い方、あるいは書き手の主観の表現の仕方が何よりも優先される。

その詩人の立場や思いになって、自分が書いている思いになれると、まるで自分自身が書いているような親近感を感じる。それができないならば、違和感だけが残る。

これが45%である。

タイプC、三番目は、意味のつながりも、言葉の世界の調和も無視する場合。書き手の心の向いている方向、それが他者であるが、他者がどの程度理解するかはわからないのだから、書かれた作品がどの程度他者、もしくは読者に理解されるかは別として、そこを重要視して書かれた作品である。

前回こう書いた。「現在は一番目と二番目の姿勢で書かれることが多い。それは、時代とそこを生きるわたしたちの望みの持てる大きさと関係があるように思う。ーーーーどの姿勢が良い書き方ということはない。時代で主流になる書き方が違ってくることはある。書き手を現実と言葉の世界への向かい方が見えない枠で囲ってしまうようなものだ。」

分かりやすくいうと、現在、詩の多くの書き手は読み手を考えるよりも、ひとつの作品を作成することで精一杯ということである。

何を書くべきか、どのようにそのテーマに関わって書くべきか、言葉の意味をどのように扱うべきかーーーこれらの課題の前で、書くということを自分に生きる意味として課しているというべきかもしれない。

一番目のタイプの書き手たちは、時代の流れに乗り遅れてはいけないし、他の詩人からの「遅れている」という眼を気にして(と思う)、二番目の電車に乗ろうとする。だから、一番目の電車の特徴である抒情詩や恋愛詩は避けられる。

といって二番目のグループの詩から、抒情詩の特徴である、空、雲、花、鳥、海等の自然を表す言葉による暗喩が消えるわけではない。これは彼らのジレンマではないだろうか。もしジレンマでないとしたら、それこそ、彼らがポストモダンから脱出しようとしているが、目的地が見えていないことの表れだと思う。

課題は、三番目のグループの作品が読み手である他者を、その作品に結びつけているか?というところにいく。

1980年後半から、詩の世界ではメジャーな雑誌が残り、同人誌が減り(と思う)、1980年前半まで書いていた詩人の作品発表が少なくなった。そのことは、読み手との繋がりが見えなくなったことによると思う。

そして、読み手との繋がりの必要性を感じない二番目のタイプの書き手が増えてきたと思う。

吉本隆明が現代詩について、「これから先自分はどういうふうに詩を書いていけるかという、そういう考えが出ているかというと、それはもう全然何もない。やっぱり『無』だなと思うしかないわけです。」(『日本語のゆくえ』吉本隆明)と書いてから、七年である。

今、過去15年の現代詩年鑑を読んでいる。わたしは詩を読まない空白の期間があったので、確認の意味で読んでいる。そして、思ったのが、読み手を想定しない二番目のタイプの書き手が増えている、特に若い詩人に多いということである。

今の現象は、戦前の日本的シュールレアリズムの拡がりのように感じられてならないというのが実感である。



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