下は、満島ひかりがうたう中島みゆきの「ファイト!」である。


現代詩は中島みゆきをこえるだろうか、という題にした。理由は、人々の口から出る言葉も、詩を書く多くの人の口から出る言葉も、中島みゆきの言葉と同じ感性になったのかなと思うからである。

下は、中島みゆきの「ファイト!」である。長いが全歌詞を引用した。


あたし中卒やからね 仕事をもらわれへんのやと書いた
女の子の手紙の文字は とがりながらふるえている
ガキのくせにと頬を打たれ 少年たちの眼が年をとる
悔しさを握りしめすぎた こぶしの中 爪が突き刺さる
私 本当は目撃したんです 昨日電車の駅 階段で
ころがり落ちた子供と つきとばした女のうす笑い
私 驚いてしまって 助けもせず叫びもしなかった
ただ恐くて逃げました 私の敵は 私です
ファイト! 闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ
暗い水の流れに打たれながら 魚たちのぼってゆく
光ってるのは傷ついてはがれかけた鱗が揺れるから
いっそ水の流れに身を任せ 流れ落ちてしまえば楽なのにね
やせこけて そんなにやせこけて魚たちのぼってゆく
勝つか負けるかそれはわからない それでもとにかく闘いの
出場通知を抱きしめて あいつは海になりました
ファイト! 闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ
薄情もんが田舎の町にあと足で砂ばかけるって言われてさ
出てくならおまえの身内も住めんようにしちゃるって言われてさ
うっかり燃やしたことにしてやっぱり燃やせんかったこの切符
あんたに送るけん持っとってよ 滲んだ文字 東京ゆき
ファイト! 闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ
あたし男だったらよかったわ 力ずくで男の思うままに
ならずにすんだかもしれないだけ あたし男に生まれればよかったわ
ああ 小魚たちの群れきらきらと 海の中の国境を越えてゆく
諦めという名の鎖を 身をよじってほどいてゆく
ファイト! 闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ
ファイト! 闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ
ファイト!

中島みゆきの「ファイト!」をわたしは意識してここに引用して、現代詩と向かい合わせようとしているのだが、それは単純な理由である。
ひとつ、詩は読み手に、小さいあるいは大きい衝撃を与えるはずである。
ふたつ、その衝撃は、書き手に先ず最初に、それから読み手に与えられるものだから、書き手は自分の詩に衝撃を受けているはずである。
みっつ、その衝撃の中身は真実あるいは真実を孕むフィクションに基づいているはずで、それが読み手に共感を与えるものである。
このことは詩を読んでいて感じることである。だから、わたしは、時に、詩を読む時に「ファイト!」のメロディーにのせて読む。メロディーにのらない詩は再度よむ。そして、その詩の感性の独自性を知ることができる。
わたしは何処の同人にも入っていないし、何らかの賞をほしいとも、詩誌に載せてほしいとも思っていない。先ず無理だろうが。わたしが不満足な詩を書くしかなくなったら、書くのを止める時だ。それまでわたしはわたし自身のために書くだけだから。
ここ何ヶ月か現代詩を読んだ。気になった詩人は何名かいる。しかし、それで改めて詩集を買い求めたのはふたりの詩人だった。わたしの考えは、どう判断しても私個人の好みによるものである。
しかし、現代詩手帖の詩を読みながら、それらの詩を、中島みゆきの「ファイト!」のメロディーで読んでいて、感じたことがある。
何年か前、荒川洋治氏がこう語った。
「いろんな詩を選んでくるときにぼくが感じるのは、田村隆一や鮎川信夫や黒田三郎や吉本隆明、石垣りん、鈴木志郎康と詩人たちはみな、その人の代表的な詩を書いています。伊藤比呂美、井坂洋子などもそう。でもそのあとこの三十年くらい現れた詩人たちはどうか。いろんな賞をもらい、名前は高まったかも。しかし、代表作がない。一つもない人も多い。論じあうときにみんなが引用してくるような作品がない。これは近年の書き手の決定的に弱い点。」
そうなのである。現代詩の詩人たちは、このひとのこの詩のこの行は時代をえぐっているという詩を書いているのだろうか、という提言である。
多分、多くの詩人ーー詩集を出しているひと、詩誌に書いているひとーーは、これは読み手に問題がある、あるいは、時代が書き手と読み手の間に溝を作ったというのではないだろうか。
わたしはどうも、そうは思えないのだ。詩は、先ず書き手が最初の読み手であり、もしかすると、他の読み手は存在しないかもしれないのが詩だと思う。
すると、現代詩のなかで「中島みゆきをこえるのは?」という質問への答えが出てくるように思える。
(続)






題名を「言葉になにをもとめるか」にしたのは次のような理由による。

わたしたち、書き手も読み手も、芸術に生きることで大きい意味をもつものを求めているだろうか、ということである。詩によって生きることができたということはよく聞くし読む、それはそれで良い。その書き手が言葉による作品を作ることで希望を得たのではないだろうか。画家なら筆を持ち色を重ねることの喜びで生きる力を得たのと同じである。また、音楽家なら、どんなに聞こえなくても、自分の作品を想像して希望をもったのに近い。

では詩を書く人は何をもとめるか。時間の壁を超えた言語のひびきを表したい、あるいは、時間も空間もこえたひとりの人間の内側を表したい、あるいは、今目にしている世界を自分の視点で明らかにしたい、あるいは、世界の情勢や時代や土地に関係なく、ひとりの人間が生きる、そして死ぬことを表したいというところでないだろうか。あとひとつ加えるなら、人類のいない視点で宇宙とこの世界を書いてみたいというのもある。

ここ数年の年末の現代詩手帖の年鑑と一月号の現代日本詩集を読んでいて、さいしょに思ったのは、書き手は読者を必要としているのだろうかという疑問である。現代詩の書き手には朗読や音楽家とのステージを行う方もいる。しかし、その時、聴き手を必要としているのだろうかという疑問は強く残った。

昔、今でもそうかもしれないが、ミュージシャンは毎晩のライブでお客さんに喜んでもらえないと次のステージがないし、好評なら大きいステージ、あるいはツアーとかの現実的な収入の話しにつながった。

現代詩の作者はたしかに朗読会やミュージシャンとのコラボを行うが、そこまで、そのことに生きていけるかどうかはかかっていない。あるいは、そこで生きていくことは困難な状態だというべきだろう。

では、そこで、書き手はどうして書くか。読み手はどうして読むか。いろいろな評論を無視してわたしの思うところを書くと次のようになる。

聴き手は、本当に極一部以外、その人生になんの影響も与えないききかたをする。さもないと、人生のこの世界での道から外れるからだ。短い楽しみである、映画やミュージカル、サーカス、展示会のような。一部、その生き方に影響を受けるような向かい方をしている聴き手がいるが、それはすでに書き手に半分入っていると考えた方がよい。

かれらはなにを求めているか。日常生活と少し違う空間、声、感覚である。

それでは書き手はどうして書くのだろうか。書き手は聴き手や読み手と違って、自らの内側から出てくる言葉を、それが全世界と釣り合うものだと考えている、あるいは思いこんでいる。

画家はこれはわたししか描けない絵だと思う、作曲家はこれはわたししか作れない曲だと思う、詩を書く人はこれはわたししか書けない詩だと思う。そうでないと、魂をこめて描けないし、魂の叫びを楽譜に書き込めないし、自分のすべての感覚、思い、認識を言葉にすることはできないだろう。

さて、こう結論づけると安易だろうか。詩の書き手はそこをとおして人間の生と死がすべて見えると考える。すべてでなくとも、大切なところが。
また、読み手は、自分の生と詩のすべてを見たいと思うこともあり、それらの一部を感じたいこともあり、それは時によって、読み手の状況によって変わる。

書き手と読み手が言葉に求めるものは、その時その時、状況によって違ってくる。

そのとき、書き手は言葉とどのように繋がるのが良いのだろうか。わたしは、読み手も、またビジネスとして成立している詩誌も、していない雑誌も、いろいろな同人の集まりも、全ての評価から離れたところで、ひとり言葉と繋がることが最善の方法であるように思えてならない。

これは、同人誌の意味を薄めるし、詩の専門誌の存在価値を認めないということではない。もし、同人誌で、あるいはその詩の集まりで価値を判断する個人がいるなら、それはよした方が良い、また、詩の専門誌は自分たちが詩の評価をするということをできるだけ避けた方が良い、とかんがえる。

言葉は、発する者と聴く者とのできるだけ直接的なつながりでながれた方が良いと思うからだ。愛してる、これはやはり直接、誰も居ないところで語りたいし、聴きたい。
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碁には定石がある。それをうつと間違いが少ないという教本である。書店で、碁の打ち方に関する本をいくつか開くとわかる。それは、これまでの歴史で、これは間違いが少ないという教えである。

俳句にもそれがある。いくつかの主宰あるいは俳句誌の責任者が書いた本を読むとそれがある。

例えば、次のような感じである。
*季語は一句ひとつまで。
*ひとつは季語を入れること。
*句読点は入れぬこと。

こういうこまかいルールに従うと、学ぶ方も楽しめるし、ルールに従うことが大切になると句を詠む時に楽である。添削する方もしやすいーーーーとわたしは思う。

この元を作ったのは正岡子規であり、高浜虚子である。負けず嫌いの正岡子規は政治家、哲学者、小説家でトップになれないとわかり、ならば、と選んだのが俳句である。初期の子規の俳句は江戸の頃の俳句と変わらない。どこにも新鮮さはない。
例えば次のような句である。

蓑笠を蓬莱にして草の庵


このころ、子規は「写生」はひとつの方法であり、その方法があるだけでは良い俳句の条件にはならないと気づくことになる。そこで季語に出会う。ただし、子規にとっては季語は俳句を装飾する言葉の選択にすぎなかった。彼は「実景を修飾する」ためだと書いている。

この時、子規は理想に生きることを諦めたのではないか、そこから近代俳句は始まったのではないか、とこれまでと違う視点から考えても良いのではないだろうかと思う。

わたしたちは子規のところまで戻っても良いのではないだろうか。

ここに上げなかったのは、俳句は五七五の音の並びを「基本」とするということであり、上げる意味がないと思ったからである。

先ほどあげた俳句のルール違反であるが、歴史的に有名な句人が行なっている。

*季語は一句ひとつまで。
目に青葉、山ほととぎす、初鰹
      山口素堂

これはどうだろう?ルールを破っているが、いいではないだろうか。

*ひとつは季語を入れること。
しんしんと肺碧きまで海の旅
       篠原豊作

この句に季語はない。しかし、それがこの句の質を落としているだろうか。

*句読点は入れぬこと。
夜のダ・カポ
ダ・カポのダ・カポ
噴火のダ・カポ
      高柳重信

句読点を入れぬことは、行替えもありえないことになる。しかし、上の句はどうだろう。

もともと字余り字足らずをゆるしている俳句である。このルールに意味があるだろうか。

最後に残るのは、五七五の音数のリズムだけである。それも八五五、五五七等当たり前になっている。

しかし、わたしは、五七五のリズムを守ろうとする意思は俳句にむかう人びと全てに生まれてくるだろうと思う。人類の歴史でリズムがのこり続けてきたことと、日本語の音律が五七あるいは七五を基本に成り立ち二千年をこえてきたことを考えると、五七五を守ろうという感性あるいは身についているものは最後まで残ると思う。

それを過去の日本語のリズムから確認しようとおもなら、時枝誠記の『国語学言論』と三浦つとむの『日本語とはどういう言語か』、菅谷規矩雄の『詩的リズム』をひらくとわかりやすい。

五七は、5.4.3の音節に別れ、七五は、7.4.3あるいは4.3.3.2の音節に別れ、それぞれの音節が同じ時間で発声されるので、そこに言葉のスピードの変化が現れ、その変化が五七あるいは七五を心地よい落ちついたものにしていると言うと簡略しすぎだが、今はそれでいいだろう。

この心地よさは言葉のリズムなので残り続けるだろうと思う。

現代俳句は、そのリズムを大切にすることだけが重要で、他は偶然の作者の個性、それには客観写生等の理念やいろいろなルールまでふくむが、それに気づくところまで、すでにきているのではないだろうか、と最近思う。



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前回は「間」について書いた。今回は、五七五の言葉と、その作品作り出す世界と作者が表現しようとした心象について考えてみたい。
「作者が表現したい心象」ということをテーマにした段階で、子規、虚子の「客観写生」は問題からはずしていることになる。理由は、「客観写生」とは理論的にはあり得ないと考えるからである。古い狩野派の絵も、そこにある象徴性を考えると「客観写生」とは言えない。レオナルドダヴィンチのコンテ絵も、作者の心が込められることから厳密には「客観写生」ではない。

では子規の俳句は?と考えてみると、やはり作者の心が表れているといえる。
例えば次の句、典型的な写生の句と言われる。

鶏頭の十四五本もありぬべし

「ありぬべし」の言葉は、「ーーーーあるなあーーーー」という心の思いを表現している。完全な「客観写生」の句とは言えないと思う。もちろん、「ありぬべし」の下五に作者の心は少し表されているだけだが。

形容詞、形容動詞はできるだけ使わぬようにーーーーなぜならそれらは作者の心を表すから、と言われてきた。ならば、助動詞、動詞も、形容詞や形容動詞ほどではなくても作者の心を表していることを考えるなら、作者の自分の心象を表しているとかんがえるべきである。

ならば、全て名詞で作った句の場合はどうだろうか。

目に青葉山ほととぎす初鰹

山口素堂の句である。青葉、ほととぎす、初鰹、季語を三つ使っている。季語であろうとなかろうと、名詞にも作者の心象を表す力、あるいは機能が必ずある。それがこの句が表現する作者の心である。「目に」の言葉は、「見える」という作者の心象を表現しているので、確かに、重要である。季語三語との表現に力を与えるのはどちらかと問うと、季語三語が大きいように思う。

青葉山ほととぎす初鰹かな

としても句が与える印象はさほど弱くならない。もちろん音とリズムはだいぶ劣ってしまうが。

これはどうだろう。

一心安楽琉球鳳凰木散華

夏石番矢の句である。抽象あるいは心象を表現する名詞が入っているが、ひとまず全て名詞である。しかし、読み手は作者の表現しようとしている心象を把握できる。

名詞もまた作者の心を表現するということである。

最初にあげた「鶏頭の十四五本もありぬべし」をこうしたらどうだろう。

曼珠沙華十四五本もありぬべし

鶏頭と曼珠沙華のわたしたちに与える感じの違いがそのまま作品の表す風景の心象の違いになっている。

名詞もまた作者の心を表現するということである。すると、完璧な客観写生は、言葉を使っている限りあり得ないということになる。

どうだろう。言葉を使う作品である限り、完璧な客観写生はあり得ない、この地点から俳句の歴史を考えると、もっとわかりやすい歴史になるように思う。

最後に、高浜虚子が大正二年に詠んだ句をあげよう。

春風や闘志いだきて岡に立つ

子規を継いで、子規よりも客観写生を強調した虚子の句だが、虚子もこうした句が好きなところがあり、しかしホトトギスの姿勢として客観写生という理念を旗にしたのではないだろうか。これはわたしの想像である。



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前回、「俳句のひとつの要ー切れ」という題で、俳句の作品としての重さあるいは深さは、作品の切れによるということを書いた。
今日は、どうして切れがそれほど重要か、考えてみたい。

切れを◼️で表すと、俳句の切れには下の五種類がある。
①XXXXXXXXXXXXXXXXX◼️
十七音の後に切れがある場合である。
XXXXX◼️XXXXXXXXXXXX□
最初の五音の後に切れがある場合。最後にもう一度切れがあることもあれば、ない場合もある。
XXXXXXXXXXXX◼️XXXXX□
最初の五音と七音の後に切れがある場合。最後にもう一度切れがあることもあれば、ない場合もある。
④XXXXX◼️XXXXXXX◼️XXXXX□
最初の五音と次の七音の後に切れがある場合。最後にもう一度切れがあることもあれば、ない場合もある。
XXX◼️XXXXXXXXXXXXXX□
 XXXXXXXX◼️XXXXXXXXX□
五七五の上五の間、中七の間、あるいは下五の間で切れている場合である。

それぞれを①「切れなし」あるいは「一物仕立」、②「初句切れ」、③「二句切れ」、④「三段切れ」あるいは「三字切れ」と呼ぶ。「三段切れ」は名詞で切れ、「三字切れ」は名詞以外で切れている場合である。⑤「中間切れ」と呼ぶ。

名前は良いとして、例にそれぞれの切れの句を有名な句から見てみよう。

①切れなし
流れゆく大根の葉の早さかな□    虚子
くろがねの秋の風鈴鳴りにけり□   蛇笏

②初句切れ
荒海や◼️佐渡に横たう天の川□  芭蕉
バスを待ち◼️大路の春をうたがわず□  波郷

③二句切れ
山路来て何やらゆかし◼️すみれ草□   芭蕉
柿くへば鐘が鳴るなり◼️法隆寺□  子規

④三段切れ、三字切れ
目に青葉◼️山時鳥◼️初鰹□   素堂
初蝶来◼️何色と問う◼️黄と答う□  虚子

⑤中間切れ
万緑の中や◼️吾子の歯生えそむる□  草田男
地の涯に倖せありと来しが◼️雪□   源二

上の①から⑤までの句を声に出して読んでみると気づくことがある。
それは次のことである。
①切れでは間があく。句の最後の切れでは余韻の沈黙がある。
②五七五を読んでいく時、上五の五音より中七の七音は少しスピードがはやくなり、最後の五音でまた少しゆっくりになる。中間切れの場合は、中七の中間で切れている場合は切れまでが上五のようなスピードになり、下五の中間で切れている場合は切れまでが中七のようなスピードになる。

この「間」と「スピードの変化」が俳句に幅と奥深さを与えている。

例えば、「荒海や◼️佐渡に横たう天の川□ 」の場合、最初の間◼️に来るまで読者は「荒海や」の上五から荒海を思い浮かべる。その荒海は読み手の経験した荒海であるかもしれないし、写真で見た荒海かもしれない。あるいは、船酔いの記憶かもしれない。
しかし◼️のあと、「佐渡に横たう」と目に入ってきて、佐渡が見え、「天の川」で夜空に天の川が見えるのである。
句の最後に□の間で、「荒海や佐渡に横たう天の川」の句全体が読み手の感性と記憶と想像力に働きかけ、読み手によって深さは違うだろうが、感受性に何かを刻むのである。

その刻むものは、「荒海や佐渡に横たう天の川」を間をおかず、スピードの変化もなく読んだ時より、幅ひろく深くなっているはずである。

またスピードが一度早くなり、下五で遅くなるのは、そこで句の世界に読み手を包み込むことになっている。

私たちは、詩の行間を読むと言い、小説の文章に書かれていないことを感じると言う。短い俳句の場合は、その行間や文章に書かれていないことを表現しているのが間であり、それを作り出しているのが「切れ」である。

俳句は「切れ」に、文字に表されていない情景や感覚、思いを込めることが要になる。

それは読み手が想像しないでも良いような明らかなものでは物足りず、全く想像できず感覚が繋がらない場合は句全体の世界を壊してしまう。

この切れによる前後の言葉の離れ具合と意外性がもたらす、その句の世界の大きさと統一感と意外性の心地よさが俳句の世界の心地よさかもしれないと思っている。




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