診療室に入ると浴室内のような空間が広がっていた、濡れてダメになるような書類は置いておらず、きっとタブレット端末で管理されているのだろう、てっきり壁に貼られてると思っていた視力検査表がない。
助手であろう女性がこちらへお越しくださいと案内する、うっすらと浮かべた笑みは濃いめの口紅のせいか華やかに見えた。
案内された場所の先に、大きなスマホのようなパネルが立てかけられていた、はいはい今はこういう感じねと自分の中で一通り納得し、わかっているとばかりに計測の立ち位置を探す。助手さんが手のひらで指すその床には、何のマークも書かれていない。その時ハッと謎が氷解した。
もしかして機械が勝手に距離を測定してくれるのでは…それならと気にも止めずパネルと向かい合った。すいませーん、もう少し下がってください。ああ、そこまで未来じゃないのねと思いつつ、ストップといわれるまで下がった。
検査用の眼鏡をかけていよいよ臨戦態勢に入る。わたしは一度も視力検査で負けたことがない、つまりわかりませんと言ったことがないのだ。しかも圧倒的大差で勝ち、もはや2.0から始めることを要求する余裕は、棒高跳びの選手がパスするかのごとくだ。
パネルに検査表が浮かび上がりバックライトで指示をだす。初めて想像していた眼科にもあるものと出会い、久しぶりの検査も相まって懐かしさを感じた。それでもわたしは容赦はしない。バックライトで照らされたCの文字を瞬時にさばいていく。多分2.0だろうと思われる文字までいくとパネルは光るのをやめた。
やれやれ最新機器でも相手にならないと思った矢先、助手さんが本を開いて顔の前に突きつけてきた。近い、近すぎる。本には検査表らしき文字が躍っているのだが、曇りガラスで遮られたような状態だ。多分助手さんはしてやったり顔なのだろう、間伐を入れずこれは?と聞いてくる。
敗北とはこのことなのだろうか、ぼやけて見えない文字をカンで当てようとする。右か左か上か下か…うーん。あ、そっかと頭を後ろに引いてピントを合わせて、右!と得意げに言う。
「あのー検査なので頭は動かさずに、わからないといってもらっていいですか…」
ですよねぇと愛想のいい声で照れ隠しをする。そしてため息のような呼吸が続く。
「…わかりません」
こうして今まで気づきあげてきた連勝記録がストップすることとなった。これから先は、聞かれるたびにわかりませんを連呼することとなる。これが老眼を認めることなのだろう。そうのうち見る物すべてがぼやけてしまうんじゃないかと思えてしまう。
ピクピクと顔が卑屈になりながら、診断書を受け取り眼科を出る。太陽は行きと同じく照っている。なんだかメガネ屋には戻りたくはない。よくはわからないけど、なにかを認めることになってしまう気がした。結局まだいいだろうと、何がいいのかわからないまま家路へと着いた。