6月27日(木):

175ページ  所要時間2:30      図書館

著者55歳(1950生まれ)。神戸女学院大学教授。

「先生」なんて立派である必要も、中身がある必要もない。万人に通じる「先生」なんていないし、必要もない。「先生」という存在を求める弟子がいれば、それで師弟関係は成立する。大事なのは、真理を求める弟子自身の心だけである。それさへあれば「先生」なんてものは、虚仮脅しでも、なんでも教壇に突っ立てるだけでよい。答えを出すのは弟子の仕事だ! 弟子が勝手に誤解を出せばよい。弟子の数だけ誤解がある。たくさんの誤解が生み出されることによって、かえって学問・文化は豊かになっていくのだ。たった一つの正解なんて下らないにもほどがある。

とまあ、こんなことを、20世紀で一番頭の良かったジャック・ラカンなどを引き合いに出したり、夏目漱石の『こころ』や『三四郎』の「先生」をみもふたも無く、ただの「中年のおっさん」として扱き下ろすことによって、少し上質にへそ曲がりな論を展開している。

理想の「先生」という考え方を真っ向から否定して、弟子が勝手に「先生」だと指定して自分の答え(誤解)を出せばそれでよいのだ、という脱力系の内容。フランス文学者的な洒落は感じた。それなりに面白かった。

6月28日(金)午前、追加。

沈黙交易(著者の好きな言葉か?)が、交易活動の原点であり、それは謎の意味不明なものの交換の繰り返しであり、原動力は利益ではなく、好奇心の連続パスである。サッカーのボールは、それ自体は無価値だが、パスを繰り返す行為自体に大きな意味がある。それは、コミュニケーション自体に意味があるということである。

コミュニケーションは、完全に分かってしまうと終わってしまう。「あなたの言いたいことは、分かりました」というのは、コミュニケーションを切りたいということ。逆にいえば、紋切り型の分かり切った明白な言葉を話し続けること(たとえば、儀式・儀礼の主賓の挨拶や、入試面接での模範解答など)は、聞き手の人格を無視する行為であり、聞き手を傷つける迷惑な行為である。

相手の言うことが理解できない時、かえって人はコミュニケーションを継続したいと感じる。同じ言葉が、全く反対の意味でとれる「あべこべことば」が洋の東西を問わず広く存在する(例えば「好き」;友達としては好きだけど、異性としては別に好きではない?)のは、それが誤解の幅を広げることによって好奇心を刺激し、コミュニケーションを継続し、深める効果がある。明晰さよりも誤解を生むあいまいさの中にこそ、新しい意味を広げるカギがある。

青年の前に、謎の存在として立つ「先生」という大人は、それだけで青年の精神を引き上げる力を持つのであり、内実はあいまいでとりとめないだけの「おっさん」であって、何の問題もないのだ。それにしても、著者の『こころ』『三四郎』の「先生」に対する評価は辛辣で、笑える。最後のまとめでは、能の「張良」が、自ら問いを発することの大切さを示すための例として、多少の脚色を込めて紹介されていた。


【目次】(「BOOK」データベースより)
先生は既製品ではありません/恋愛と学び/教習所とF-1ドライバー/学びの主体性/なんでも根源的に考える/オチのない話/他我/前未来形で語られる過去/うなぎ/原因と結果/沈黙交易/交換とサッカー/大航海時代とアマゾン・ドットコム/話は最初に戻って/あべこべことば/誤解の幅/誤解のコミュニケーション/聴き手のいないことば/口ごもる文章/誤読する自由/あなたは何を言いたいのですか?/謎の先生/誤解者としてのアイデンティティ/沓を落とす人/先生はえらい