6月22日(土): 読み終わったのは、23日am4:30
391ページ 所要時間6:50 ブックオフ105円
近頃、職場の人間関係でとても粗雑で嫌なことがあって気分が滅入っていた。重松清の作品を読みたくなった。
著者39歳(1963生まれ)。 自分よりはるかに年下な時の重松清の作品を読むのは、少し屈辱だ。しかし、考えてみれば、高橋和巳は35歳で『邪宗門』を書き、漱石は49歳で死んだ。太宰は39歳で死んだ。啄木のような天才もいる。まあ35歳を過ぎて居れば、自分より年下もくそもないのだろう。むしろ、60歳を過ぎれば、作家も鋭さを失った出涸らしになるのかもしれない。
重松清の作風の大きな特徴は、自分と同年代(多くの場合同年齢)を主人公に選ぶことが多いことだろう。そのため、作り事でない、当事者による非常にリアルな記憶と実感を読者に届けることができる。一方で、著者自身は年齢を重ねていくが、作品は1962~63年生まれの人々の各年代における<思惟の記念碑>として、また高度経済成長期以後の日本の社会・民俗・時代精神史の貴重な史料として別の意義も深めていく。それが、今後どの世代に対しても普遍性を持つことができるかが、一つの勝負だろう。結果は、俺にはわからないが、俺にとっては重松作品は癒しである。
さて、今回の読書では、泣けなかったので感想4を考えていたが、最後まで読み通すと、著者の優しくて丁寧な人間観察眼に納得し、描き出された作品世界に満足してしまった。共感の一票を投じたい気分になったので、感想5である。まあ、必ずしも泣けなくてもよいのだ。
内容は、27年ぶりにタイムカプセルを開けるために小学校の同窓生が集まったところから始まる。39歳という後戻り不能な人生の岐路を迎えた彼ら・彼女らはそれぞれに重大な局面を歩んでいるが、いずれも蹉跌を味わい、壁に直面して喘いでいる。
さらに、タイムカプセルには、40歳で不倫による情死を遂げた担任の女性教師からの思いもかけない「皆さんの四十歳はどうですか? あなたたちはいま、幸せですか?」という問いかけの手紙が入っていた。
再会を果たしたあと、離婚の危機にある同級生夫婦に二次会に連れ出され、まさにDVを目撃させられる同級生たちのシーンから話は動き始める。彼らの関係は、ドラエモンの世界に重ねられ、「のび太」「ジャイアン」「静香ちゃん」「静香ちゃんの女友だち?」「ドラエモン」「スネオ」など小学校時代の役割分担が意識的に演じられる。
この役割分担は、離婚危機の夫婦の当事者である「ジャイアン」が、ある種うざくて暑苦しい感じで作りだした分担であったが、その役割をなぞることによって、27年ぶりの同級生は、自然な立ち位置を得る。一方で当然のことだが、「ジャイアン」は、もはや「ジャイアン」ではない。しかし、結局このような関係を維持する上で、「ジャイアン」を演じ続ける人間が、とても大切な存在であることを、著者はわかっている。
物語りでは、「ジャイアン」と「静香ちゃん」が夫婦となり、離婚の危機にある。しかも、「静香ちゃん」と「のび太」が実は小学校の時、両想いだったことを互いに知らず、27年後にそれを知ってしまう。「ジャイアン」も「のび太」も転職による転落やリストラに直面(明日は我が身か…)し、「静香ちゃん」はDVに苦しんでいる。「静香ちゃんの女友だち(実は、全く親しくなかった)?」は、独身の予備校古文講師で、若くに「古文のプリンセス」として一世を風靡したが、もはや落ち目である。それが突然、離婚寸前の夫婦の子供たちが転がり込んできて彼女たちの庇護者となる。みんな人生の大きな壁にぶつかっている。
転勤族の子でみんなの記憶にほとんど残っていなかった「スネオ」は、B型肝炎が悪化し、入退院を繰り返し、肝硬変か、肝臓がんによる死と直面している。やや知恵遅れ気味でマイペースの「ドラエモン」は、緩衝材的存在でみんなを優しく結ぶつける存在。
全くもって身勝手な同級生の夫婦に強引に巻き込まれ、振り回される理不尽に怒りながら、いつか本来の自分を取り戻しつつあることにも気付いていく登場人物たち。若くない39歳が、互いを手探りで探りつつ、その関係の大切さを自覚する。
0048で読んだ秋元康の本で「僕にも「親友」と呼べる人が何人かいるのですが、彼らとの関係を考えると,“近さ“よりも“長さ”に比重を置いて考えてしまう。略。もしかしたら「親友」とは、同じ時代を生き抜いている者同士が、たまに声を掛け合うような関係のことかもしれません。今、隣にいなくても、また、どこかできっと会える、また、どこかで会いたいと思った友だちがいるとしたら、それは君の「親友」です。63ページ」と書かれているのを思い出した。この意味であれば、友だちのいない俺にも、実は親友がわずかだがいる。そして、親友とのつき合いでは、昔の関係の役割を守り、演じ続けることの大切さを再確認させてもらえた気がする。重松清の慧眼、恐るべしである。
※何分、読了したのが未明のam4;30なので、感想は上手くまとまらない。乱文御免。また、整理・加筆できればします。おやすみなさいませ。
391ページ 所要時間6:50 ブックオフ105円
近頃、職場の人間関係でとても粗雑で嫌なことがあって気分が滅入っていた。重松清の作品を読みたくなった。
著者39歳(1963生まれ)。 自分よりはるかに年下な時の重松清の作品を読むのは、少し屈辱だ。しかし、考えてみれば、高橋和巳は35歳で『邪宗門』を書き、漱石は49歳で死んだ。太宰は39歳で死んだ。啄木のような天才もいる。まあ35歳を過ぎて居れば、自分より年下もくそもないのだろう。むしろ、60歳を過ぎれば、作家も鋭さを失った出涸らしになるのかもしれない。
重松清の作風の大きな特徴は、自分と同年代(多くの場合同年齢)を主人公に選ぶことが多いことだろう。そのため、作り事でない、当事者による非常にリアルな記憶と実感を読者に届けることができる。一方で、著者自身は年齢を重ねていくが、作品は1962~63年生まれの人々の各年代における<思惟の記念碑>として、また高度経済成長期以後の日本の社会・民俗・時代精神史の貴重な史料として別の意義も深めていく。それが、今後どの世代に対しても普遍性を持つことができるかが、一つの勝負だろう。結果は、俺にはわからないが、俺にとっては重松作品は癒しである。
さて、今回の読書では、泣けなかったので感想4を考えていたが、最後まで読み通すと、著者の優しくて丁寧な人間観察眼に納得し、描き出された作品世界に満足してしまった。共感の一票を投じたい気分になったので、感想5である。まあ、必ずしも泣けなくてもよいのだ。
内容は、27年ぶりにタイムカプセルを開けるために小学校の同窓生が集まったところから始まる。39歳という後戻り不能な人生の岐路を迎えた彼ら・彼女らはそれぞれに重大な局面を歩んでいるが、いずれも蹉跌を味わい、壁に直面して喘いでいる。
さらに、タイムカプセルには、40歳で不倫による情死を遂げた担任の女性教師からの思いもかけない「皆さんの四十歳はどうですか? あなたたちはいま、幸せですか?」という問いかけの手紙が入っていた。
再会を果たしたあと、離婚の危機にある同級生夫婦に二次会に連れ出され、まさにDVを目撃させられる同級生たちのシーンから話は動き始める。彼らの関係は、ドラエモンの世界に重ねられ、「のび太」「ジャイアン」「静香ちゃん」「静香ちゃんの女友だち?」「ドラエモン」「スネオ」など小学校時代の役割分担が意識的に演じられる。
この役割分担は、離婚危機の夫婦の当事者である「ジャイアン」が、ある種うざくて暑苦しい感じで作りだした分担であったが、その役割をなぞることによって、27年ぶりの同級生は、自然な立ち位置を得る。一方で当然のことだが、「ジャイアン」は、もはや「ジャイアン」ではない。しかし、結局このような関係を維持する上で、「ジャイアン」を演じ続ける人間が、とても大切な存在であることを、著者はわかっている。
物語りでは、「ジャイアン」と「静香ちゃん」が夫婦となり、離婚の危機にある。しかも、「静香ちゃん」と「のび太」が実は小学校の時、両想いだったことを互いに知らず、27年後にそれを知ってしまう。「ジャイアン」も「のび太」も転職による転落やリストラに直面(明日は我が身か…)し、「静香ちゃん」はDVに苦しんでいる。「静香ちゃんの女友だち(実は、全く親しくなかった)?」は、独身の予備校古文講師で、若くに「古文のプリンセス」として一世を風靡したが、もはや落ち目である。それが突然、離婚寸前の夫婦の子供たちが転がり込んできて彼女たちの庇護者となる。みんな人生の大きな壁にぶつかっている。
転勤族の子でみんなの記憶にほとんど残っていなかった「スネオ」は、B型肝炎が悪化し、入退院を繰り返し、肝硬変か、肝臓がんによる死と直面している。やや知恵遅れ気味でマイペースの「ドラエモン」は、緩衝材的存在でみんなを優しく結ぶつける存在。
全くもって身勝手な同級生の夫婦に強引に巻き込まれ、振り回される理不尽に怒りながら、いつか本来の自分を取り戻しつつあることにも気付いていく登場人物たち。若くない39歳が、互いを手探りで探りつつ、その関係の大切さを自覚する。
0048で読んだ秋元康の本で「僕にも「親友」と呼べる人が何人かいるのですが、彼らとの関係を考えると,“近さ“よりも“長さ”に比重を置いて考えてしまう。略。もしかしたら「親友」とは、同じ時代を生き抜いている者同士が、たまに声を掛け合うような関係のことかもしれません。今、隣にいなくても、また、どこかできっと会える、また、どこかで会いたいと思った友だちがいるとしたら、それは君の「親友」です。63ページ」と書かれているのを思い出した。この意味であれば、友だちのいない俺にも、実は親友がわずかだがいる。そして、親友とのつき合いでは、昔の関係の役割を守り、演じ続けることの大切さを再確認させてもらえた気がする。重松清の慧眼、恐るべしである。
※何分、読了したのが未明のam4;30なので、感想は上手くまとまらない。乱文御免。また、整理・加筆できればします。おやすみなさいませ。