私の親孝行

 母への親孝行……できませんでした。

うちの母は、漁師の家の長女として産まれました。祖父母が帆立の漁業免許を持っていたため、裕福な家庭だったことは跡を継いだ叔父や叔母の生活を見ると分かります。

音楽は洋楽(ロック以外)、読書は松本清張が好きでした。高校も地域で一番の高校へ行き、卒業後地元の信用金庫で働いているところを、先輩である父に見初められたそうです。

長男である自分と、長女の妹にも恵まれました。

しかし、ある時伏せっていることが多くなり、夜は眠れなくなりました。

空笑い、妄想、妄言(独り言)……当時でいう精神分裂病(現在の統合失調症)を発症してしまいました。

今であれば合う薬を見つけ、普通の生活が送れるように精神医学は進歩しましたが、当時は隔離入院を繰り返すしかなく、どんなに辛かったかは、すっかり病院嫌いになってしまった母をみればおのずと分かりました。

自分が小学5年の冬、母は、無理やり入院させようとする祖母や父を前にして、暴れだし、妄言を連発しました。その一つが

「この子(自分)はスウェーデンから連れてきたんだから!耳の形見れば分かるでしょ!」

とてもショックでした。「うちの子じゃない」どころか日本人であることすら否定されたのですから(今鏡を見ると、多少耳の形は他人と異なりますが、日本人以外の何者でもないことは分かりますし、父と母の子であることもはっきり分かります)。

そんな母を置いて、自分と妹は大学以降はずっと一人暮らしをしてきました。実家に帰るのは年に一回あるかないか。

2011年、東日本大震災の年、自分はガンの予後治療をしながら働いていました。妹は家庭をもってパートに出て家計を支えていました。

そんな時母が体調を崩したと、父から知らせが入りました。父いわく「もう長くないと思うから帰って来い」、いきなりの知らせに慌てました。

飛行機のチケットをとって、羽田空港ロビーで母の訃報を聞きました。享年64歳。

父は「母さんは幸せだったと思うぞ」と言いますが、自分はそうは思いません。楽しいこともなく、ただ寝たきりで妄想に支配されている状態が果たして幸せだったと言えるでしょうか。

自分は医者になって、母を治してあげるべきだったんじゃないか。それが無理でもそばにいてあげるべきだったんじゃないか。

今でも自問しています。

少なくとも母に対して親孝行をした経験は一度もありません。今できる親孝行は、母の分まで生きること。楽しいことや嬉しいことをたくさん経験することが、産んでくれた母への恩返しなのだと思っています。また、人は死ぬと無になります。悲しいことや辛いことから解放される、そういう意味では誰もが死ぬと天国へ行くのだ、そういう風に考えています。

母はタバコが吸えないここは地獄だ、と思っているかもしれませんが。


P.S.父は恋人をつくってよろしくやってます、自分も妹も了承済みです。

 

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