ホントの瞬間はいつも
  死ぬほどこわいものだけど
  逃げ出したくなったことは
  今まで何度でもあった

  (The Blue Hearts/終わらない歌)

 発明家がアイデアを次々に閃くのは、その人に特別な閃きの能力があるからじゃなくて、いつもそのことについて考えているから、時々そういう瞬間がくるということなんですよ、みたいなことを聞いたことがある。ほーぅ。論理で押していくんじゃなくて、周りに情報のピースが集まってくると、組み合わせトライみたいなのが始まって、バターとバゲットみたいにピッタリはまったとき、アハ!とくるのかなと、そういうイメージで捉えている。



 クライマックス、気づきのとき、みたいな感じで予告してるけど、本当はどう呼ぶといいのかな。落ち込んで、デロデロになったあと少し上がってきたときに、は!そういうこと!?と、ビビーンときたりするやつ。今回この段階にきて気がついた、というか思いついたことは、大学に行きたい、アートセラピーというのを習いたいということだった。

 ドイツの公立の大学は基本的に外国人にも学費は免除で勉強させてくれるらしく、理想論を言うだけでなく、ちゃんとふとっぱらに予算を使ってとても多くの人に教育の機会を提供してくれている。それで、学費がいらないなら、他もろもろがかかるにしても私のこれからの生活でもなんとかできるかもしれないんじゃない?と思いついたというわけです。



 いつも持ってるinferior感の原因の一つ、「学位を持ってない」を解消できるかも、それと、もうつぶれちゃってる「大学で勉強したい」の夢を叶えられるんじゃない?と期待する感じ。

 自分のことを常にラインに足りてない、inferior と感じていること、これは日本語ではなんというんだろう? ほぉ。劣等感。……劣等感。ふうん。劣悪の劣、等しいに劣る、なるほどね。確かにそれだ。どこへ行っても自分だけ資格がたりてないみたいな、みんなが持ってる入場券を自分だけもってないみたいな、後ろめたいような、ばれないでほしいみたいな、なんでないのかなぁ私には、みたいなやつ。持ってない、足りてないの感覚をいつも持ってる。すごくしつこいやつ。大学に行きたいと思いついて、その劣等感を持ってることについて、よくよく気が付いた。おへーっときた。それが今回の中崩れのクライマックス。



 クライマックスというと頂点、てっぺん、一番上のところみたいなイメージだけど、私の崩壊事変中に起こるクライマックスは、下の方にとんがってる。でもここまで行きつくと、あとは上昇してこれる。ぷわぷわと浮力が働く感じで、私の努力があるわけじゃなく、誰かがそろそろ許してやろうかと操作してくれるみたいに、下の方から表面近くまで浮かんでこれる。そしたらもう、こんにゃろう、こんにゃろうと思いながら毎日をやるだけ。こんにゃろうできるだけ一生懸命やってやると、取り込んで取り込んで出して出しての工場フル回転の感じで、どこかの誰かさんの役に立てることがあったら何かしたいと、苦しい人がいたら少しの助けになりたいと、チャンスが来た時のためになるべく全方向的に準備しようと。ちょっと宮澤賢治のデクノボーにも似ていて、気持ちはまあまあいい方向というか、自然な、多分もともと人間がみんな持って生まれてくるやつ。助けてもらって生きます、あなたのためになにかできることがあったらぜひしたいの、させてね、の感じ。



 下にとんがったクライマックスで、今まで発見したことは他に、私の場合、オリジナル家族の中でベタベタに愛されたということがなかったことに加えて、行けばみんなある、みんないる、の、あの風景、あのおばちゃん、昔を全部知ってる友達、親戚、あの駅、あの味、あれやっちゃったとこ、あのエピソードなどなどがみんな詰まってるホームタウンがないこと、あともう一つ、うまくやれば新しい人と結びつくときに作れる深い関係、たとえば夫と妻が築けるはずの深い信頼関係みたいなのをつくるのに失敗してるから、誕生してオギャアと言ったときのあの不安が、解消されたり縮小されたりすることがなく、そのまま残っているんじゃないの?ということ。別の時にはもう少しいい発見があった。人に認められたいという意識が強いのに、せっかく認めてもらっても褒めてもらっても自分の中に何も残せず糧にできないこと、それについては結構いいことを思いついた。今の自分は未来の自分に納得してもらえるようにやってればいいんじゃないの、と。ほんで今の自分は過去の自分を全面的に肯定してあげることにする。そうすれば、他の誰かからの届いたり届かなかったりする評価に関係なく、いつも見てもらって、いいだろうと肯定されてると感じながら生きられる。あとは、私はもっと色々やればできるのになんで専業主婦なんだ、と、なんで掃除と料理と子供の世話という誰にでもできることしかしていないのだ、んぐー、がテーマだった時は、その道のすごい人になってやれと思いついた。すみずみまでどんな汚れも落とせる清掃人、片付け名人、腕のいい料理人、情操教育的アカデミック教育的、その他色々にわたって子供をよく観察し、子供全般についても勉強し、彼らのもともと持ってるいいところを全部発展させられるようにしたらいいんじゃないのとか、快適な家についてなど、健康とかライトの明るさとか、専業主婦が誰にでもできることだけしてる人じゃない人になるためにできることはいくらでもあった。



 このように、クライマックスまで行きつくといいことがある。何か1つか2つわかって、それによってやればいいことがわかる。火山の噴火のあと土が肥えるように、ぐちゃぐちゃになってダメだったわーひどかったわーだけで終わらず、いいことを持って帰ってきて、続きをまたがんばれる。悪いことばっかりじゃない。だから、ブラブラ精神を揺さぶられて生きてますけど、ああはなりたくないねとか、かわいそうにと思われるのとはちょっと違う。そういう風に思っています。