子どもたちが、今年はずいぶん早いんだねのイースター休暇に入るあたりだったから、あれは多分、3月が中旬から下旬に変わった頃。ドイツ中部ヘッセン州のとある街のとある外国人住民の私の中で、中級の崩壊が始まった。

今回の崩れ事案の直接の大きな引き金になったのは、多分、その少し前に、走るのとヨガに行くのを同時にやめたこと。今は思い起こすとそうだったなとわかる。崩れ始めちゃったのを、あ、来てる、来てるんじゃないのこれ?と感じてる時には、気づいてなかった。



早く上達したいとはりきって、家で、まだできないヨガのポーズを練習していたとき、脚を引っ張りすぎたら、前から違和感のある左の膝の外側の筋肉か腱かなにかが、ブッチーンといった。確か実際に音を聞いたと思う。わ、これだめなやつ、とピンとくるタイプの。私は子供のころよく運動や遊びでけがをしたので、ちょっとしたらすぐ治るのと、治るのに時間がかかるタイプのケガの違いは、なんとなくだけど、やっちゃったその時にわかる、と思っている。それでこの時のブッチーンは、時間のかかる方という直感があった。歩くのにも痛みがあった。年齢のせいで回復により時間がかかるのはわかってるので、それ以上悪くしないことを最優先にしたかった。で、ヨガもジョギングも、少し遠くまで歩くとか、電車に乗ってでかけるとかも、痛いところに負担のかかりそうなことは全部やめた。
実は同時に、リズムよくやってはいたけれど、ヨガか走るが必ず入ってる毎日が体力的に少ししんどくなってきていたので、休めるきっかけができて、しめしめとも思った。
体力的な限界まで粘る必要がなく、時間的にも余裕のできたことに、しかも自分の意志が弱くてそういう状態になっているのではなく、けがをしたからしょうがなくそうしているという正当な言い訳のある状態ということに浮かれてしまって、自分にとっては、ヨガと走るがメンタルを正常に保つ大事なセラピーになってることを忘れてしまっていた。反省点は主にそこだ。



運動をやめて始めの2日ぐらいは、本当にいい気分だった。予期せずホリデー到来、のような。家族の好きな少し手の込んだ料理を作ったり、片付け物をしたり、いつもなら、まだあれをやってないのにと、時間をとるのに後ろめたさを感じてできなくなることの多い読書も、なんと昼間のうちからやってしまった。嬉しかった。そこが頂点であとはスルスルスルー、おやおやおやおや~、と落ちて行った。

気づいたことがある。
8283を書いた時には、崩れていく山を傍観しているイメージだったけど、山は実は私の足元にある。そっちのイメージの方があってる。ガタガタときて崩れていく時は、私も飲み込まれて、一緒に埋まる。埋まっちゃった先には光も届かない。そのあといつ出ていけるのか、いつか出ていけるのかわからない。それが最高級に怖い。だから流れがきたら、なるべくましな位置を確保しようとする。あんまり奥の方に埋まらないですむように、なるべく表層面に近いところで流されていこうとする。つかまれそうなものにはつかまろうとする。それで、花の種を植えたり、台所やバスルームの徹底掃除を始めたり、フライパンの底を磨いたりする。それから遠くにいる友達にメッセージをする。助けてーとは言わないように気をつける。すぐに向こうが疲れて嫌になっちゃうから。それに、どうやっても彼らに私を助けることはできない。これは私の問題で、外からの作用では解決しない。でもちょっとはにじみ出ちゃう、か、わざとにじみ出させちゃう。すなわち、これくらいは勘弁してもらえるかなと、自分が調子よく行ってない状況(すでに対応中とにおわすのも忘れない)の様子を、クールに″お知らせ″するのだ。こざかしい。でも知っててもらえるだけで少し強気になれるところがある。だからやっちゃう。必死なので許してね。

そこから先は次の段階。ミゼラブル期に突入。
その話はまた次回。



ひょっとして偶然これを読んだ人がメンタル問題あるとかの場合に、ひょっとしたら何かの役に立つかもしれないので、ご参考までに、ヨガと走るが、健康なメンタルを保つのにどんな効果があるかについて、書き加えさせてね。

まずヨガの方の効果は、練習中いったん自分と世界のすべてから離れられるところ。
自分の呼吸と身体の動きや反応だけに集中することで、考えることをストップすると、身体というのがすごく精巧にできていて、複雑に機能しているのがわかってくる。自分の身体が、森や海や植物や虫や魚と同じように自然の一部だと感じられる。たまにうまく呼吸の波に乗れると、風に乗った鳥のような感覚さえ味わえる。先人がいろんなことを言ってると思うけど、去年の10月にアシュタンガヨガに出合ったばかりの初心者の私ではこの程度。でもそれでも十分に、すごく、すごい。自分も自然の一部なら、どうにもできないことがあるのは当たり前だと思える。それに、大きな中の小さな小さなたった1つだとわかるから、それなら大したことはないと、できるだけやればそれでいいかと覚悟が決まる。というか、作ってくれてありがとう、この中にいさせてくれてありがとうという気持ちになってくる。
あと、このように瞑想状態に入りやすいのは、マイソールスタイルという自習形式で、毎回決まったポーズを順番にとりながら、自分の呼吸のペースで進んでいくというのがいいのだと思う。ヨガにもいろいろあって、よくジムについてるスタジオとかで、初心者から誰でも参加できますの雰囲気で、インストラクターが前で見本を見せて、見様見真似でなんとなく似たようなポーズをしていくやつや、オンラインの先生をこの人きれいだなぁと、いつかこんな風になれたらなぁと見惚れながら練習する方法でもそれなりの、プラスで別の効果があると思うけど、アシュタンガ練習仲間のアレックスによると、ああいうのは彼の中ではヨガじゃない。私にも別物のように思える。
去年の10月は私がホテルをクビになった時で、あれもガビーンと来ていた時で、そういう時にアシュタンガに巡り合えたことに感謝してる。そしてそれを、私は74に登場のシャインくんが、ピピピのピとアレンジしてくれたんじゃないかと思ったりする。おかげで、この先もずっとやっていけそうな気がしてる。

それから走る方の効果について。
これはウォーキングメディテーション(歩きながら気づきを続ける瞑想法)というのと同じで、ただ何も具体的に考えずに歩くとか軽く走るとかして、頭を自由にして一定のリズムで動いていると、何か知らないけどいいホルモンがでてきて、帰ってきてシャワーして髪を乾かしてるころには、走る前より気分のベースがうんとよくなってる。走ってる間に、はっ!と、おもしろいことや、あ~っと、そうか、そういうことだったのか!というのを思いつくこともよくある。多分デフォルトモードネットワークというのの活性化とかいうのが、これなんだと思う。それに、走ってると道々、カモのカップルがデイジーのたくさん咲く原っぱでゆっくりおやつを食べてるのを見かけたり、白鳥の家族がぶわぁーっと川に着水するところに出くわしたりできる。

どっちも、ベッドでゴロンとして、次から次にやってくる思考に振り回されてるより、うんといい。じゃあ行こうかと、ベッドから出る時が一番の難関。でもそれさえできれば、すごくいいのが待ってる。