当時は、人間は二種類しかいないと思っていた。(A)普通のばかと、(B)ばか扱いされるまともな人たち。トライさえしていれば、うまくできていなくても、まともな人の方に入れる。そこでどっちにするのだ、私、今、とファイナルデシジョンを迫られてる気分だった。そのあと少しすると、その二種類が少し違って見えてきた。あるのは、(A)普通のばかと、(B´)考える/苦しむ/悶えるばか。結局みんなばか。今はだいぶ年をとったので、少しは賢くなって、二種類ではないのがわかってきた。種類は一つ。みんなまぜまぜで、みんなばかで、みんな愛おしい。

 若い私は、普通になりたいの方を消極的に選んだ。特に抵抗しなければ、オクニユタカ(父。仮名)が作った流れに乗っかってそっちに向かうようになっていたから、選んでなくてもそっちへ進むようになっていた。4月がきて、ばかだ大学きゃぴきゃぴ大学に入学した。何でも新しくて大騒ぎの2年年下のかわいい女の子たちと同じクラスになった。彼女たちを、ほらやっぱり汚い、おえーとか、あなたも結局自分のことばっかりですね、おえーとか、敵意を持って見るということはなかった。努力してそうだったのではなく、彼女たちはただウキウキしていてかわいくみえた。遠い世界の生き物に見えた。

 



 クラスには一人40代か50代ぐらいの女性がいて、一度よく勉強してみたいと思っていたの、時間もできたし、と入学の理由を言っていたと思う。へー素敵ですねと思った。だいたい今の私の歳。現在の私に仕事が見つからないのを見かねて、現在の研が、私に大学院に行って専門性を身に着けるよう提案したりするが、もし行くとするとあの時のあの人のような存在になるのだなと思う。研に、お母さん大学卒業してないから院には入れないよ、学部から始めないと、と言うと、研はそれだとちょっと時間かかるね、と私の年齢を数え、もう打つ手がないという顔になる。他にもう1人、きゃぴきゃぴしてないグループに吸い寄せられてきた人がいた。彼女は私と同じ年で、2浪したけどその年も受験に失敗し、まだ来年もチャレンジするつもりだけど、世間的に3浪はちょっとだから、もう大学におさまったように見せかけるために滑り止めだったこの学校に入ったと言っていた。そういうのを仮面浪人というんだと教えてくれた。暗い感じの小柄な子だったけど、笑うと可愛かった。賢そうだったけど、本命の入試の日には風邪をひいていて本来の実力を出せなかったんだそう。数か月後、私がその学校をやめようと思ってると話すと、えーほしたらうちどうなんのー。えー。えー。と言っていたと思う。知らないと思った。自分でがんばってよと。

 一般教育科目は、前の学校より興味があるのを選べた。ドイツ文学、西洋美術史、日本美術史あたりは、目指して入ってきた児童文学よりおもしろかった。児童文学は先生がいまいちだったのかな。もっと自分で本を読んで勉強したらよかった。材料は豊富にあったはず。それと外国語は、普通英語ともう一つという風に選ぶので、と反対されたけど、英語はもう十分やったからとフランス語とドイツ語をとらせてもらった。どっちも興味があったけど、言語クラスでは隣りの人と会話練習をしたり、ペアを変えて質問の練習と、テンションをあげていかないといけない。そういうのは全然無理で、授業には最初の数回しかでなかった。フランス語の基礎もちゃんと習っておけばよかったなぁと今は思う。ドイツ語は2回の授業ではなんの土台も作れなかったけど、その時に買った辞書を今も使ってる。礼拝堂があって、チャペルアワーという時間には行ってなんか話を聞くことになっていたし、少し興味があったけど、近くまで行くとなんか変な勧誘する人とかがいてめんどくさいので、近寄らなかった。私にはエネルギーが足りなくて、できることは限られていた。そういう風に自分に甘くしていた。すぐ泣くとヨレヨレしてるのはまだ続いていたけど、ひょっとしたら甘くするのをやめて、言語クラスでは無理やり元気をだして隣りの人をぐいぐい引っ張って会話して、礼拝堂付近で勧誘に捕まったら私の時間を無駄にするなと強い意思で蹴散らせるとかしていたら、より早く標準に戻れていたんじゃないかという気もする。

 ドイツ文学の先生は、当時の私にとって話のわかる人だった。ほとんどおじいさんの背の高い、いつも黒っぽい服を着た先生。先生自体はおもしろくもなんともない。けど授業の中身はちゃんとしていた。きゃぴきゃぴたちには難しくて退屈なようだった。先生はドイツ語も担当していたから、私がドイツ語クラスをいつも休んでるのは知っていたかもしれない。若者のいう『話のわかる人』というのは、『自分を認めてくれる人』に限ると思う。トーマス・マンの短編についての宿題で私が提出したエッセイを、変わったのがあったと先生が授業で取り上げて、書いたもの全部を分析した。その後も書いて出すタイプのものでは先生がいつも取り上げてくれた。退学するときは確か書類を一枚出すだけか何かで、とても簡単だったけど、この先生のところへはわざわざ部屋を探してばいばいと言いに行った。そうですかと言われただけだったし、顔も名前も覚えてないけど。先生はどうしてドイツをやっていたのかなと思う。余裕が出てくると人のことを知りたいと思う。興味が出てくる。でも余裕がない時は、先生のドイツ文学かドイツ語との出会いや、その後何を読んで何を感じてきたのか、なんてことには全く興味がない。なかった。そして今思うけど、うまくいっている人間関係は、相手のことを思うコミュニケーションがあるときに成り立ってるなということ。自分に余裕がないと、そういう状態にならない。だから落ち込み過ぎの人も忙し過ぎの人もいっぱいいっぱいの人も、人とうまく交われない。



 オクニユタカの別の命令で、そのころ近所の病院の精神科にも通ったけれど、そこのお医者からはよいものを何も受けられなかった。薬をどっさりもらって帰っていただけ。と、当時は思っていた。でもあの医者のアドバイスは、運動をしてみたら?とか規則正しい生活をするといいですよとか、ちゃんと耳を傾けていれば訳にたつものだったと思う。ただ私の方の態勢が悪くて、アドバイスを役立てられなかった。うすら笑いしてるように見えるそのお医者の表情と、仕事だからやってるだけでしょうが見え見えっぽい雰囲気に、私が最初から敵意丸出しで対峙していた。なのでこちらから心を開くことはなく、よくはぁ?と食って掛かったし、お医者の言うことを信じなかった。でも医者は私の言動からできるだけ情報を収集し、対応策アイデアをくれていたんだと思う。今は全体像が見えて、それがわかる。でも必要だった安定は、その医者とのセッションより、のっぼのドイツ文学の先生の授業でもらっていた。

 その後も、夜中に急にバタンバタンやってパンをこね始めたり、やになって途中でやめたり、煙草を吸ってみたり、いつまでも下界の様子を眺めたり、朝ごはんにニンニクたっぷりのパスタを用意して兄2に食べろと言ったりして、コケコワン(母。仮名)による、普通の子のすることじゃないでしょう、を連発させた。まだ少しおかしかったと思う。