今日は中学校で入部した陸上部と、そこにいたミッテンヴェストくん(ある陸上部の男の子)の話。(お断り:一昨日、ミッテンヴェストくんはミドルウエストくん(仮名)として登場しましたが、その名前が普通っぽ過ぎとダサいところがあまり彼に合っていなかったので変更しました。悪しからず。)

 その陸上部で、私は短距離では遅い方だったし、得意なはずの長距離には挑戦しておらず、跳躍系も投げる系も目覚ましく他の子より成績がよいというわけではなかったけど、まじめに練習に出て、練習中にあまり無駄話をしない、後輩に人気があるなどが先輩に評価されたようで、2年の途中、3年生が引退するときに副部長に推薦された。ニキビ先輩は、テンプライ(私の苗字。仮名)が部長が一番いいと思うんだけどなぁと言ったけど、男子が部長、女子が副部長という昭和が平成に変わったばかりの時代の当たり前が残っていた。別に部長も副部長もやりたかったわけじゃないし、いいですよと思ったけど、少し残念だった。部長に選ばれたのは、ミッテンヴェストくんではなく、こけしパーマくんだったから。走ったら一番速いのはミッテンヴエストくんで、投げても跳んでもすごいのはミッテンくんだったけど、彼はちょっと変わっていて、日本語も少し下手だった。こけしパーマくんの方は、みんなの目が飛びでるようなすごいことや変な発言をすることはなく、期待通りで、たまにちょっとだけ、気を許してる人にだけ小さな声で本音を言う、一般の人が信頼できるタイプの青年だった。ニキビ先輩は、テンプライが部長、ミッテンヴェストが副部長だったらおもしろくなるのになぁ~と残念そうだったけど、私もそうしてくれたらよかったのに!と心の中で思ったけど、3年生全体ではこけしくんが選ばれたのだった。

 ミッテンヴェストくんは、私の高校の時の友達によると、顔も体も流線形をしていた。とんがってる。目も鼻も顎も耳も。それで髪も全部上向きにツンツンしていて、なんとなく手も脚もとんがっていて、シャープな感じに見える。唇が赤すぎるのが、本人は嫌だったみたい。頬が細くて口が大きいので、その赤い唇で大口を開けて笑うと端っこが耳に届きそう。背景を黒にして、目も大きく開いてる時のイラストを描いたら、迫力のある顔になると思う。怒ってるときは、その口が長く横に伸びて、閉じていて、全然開かない。陸上の大会に出ると、速いし、走り方もかっこいいし、そういう風にシャープでクールそうに見えるので、よその学校の女の子のファンがたくさんいた。でもいつもの学校では、運動はすごいけど、勉強の成績が悪かったのと変なことを言う変なやつという扱いで、みんなの方はおもしろいを込みで親しみのまなざしを向けていたと思うけど、本人はバカだと思われていると思っていた。でもミッテンくんは全然バカじゃなかった。私の方は、日本語はどちらかと言えば得意な方だったし、勉強はあまりしなくてもテストで点がとれたので成績はよかったけど、ミッテンくんの方がよっぽどいろんなことを知っていた。円山公園の手前の高くなってるところから街を見た時には、夜景の光がチラチラしてきれいなのは、普段は気づかないけど電気というものは実はいつもチラチラしてるものだと教えてくれた。それに彼は、見た目と同じでとても鋭かった。

 優しい人というのが世の中にたくさんいるけれど、それより深いところで、悲しみを感じたり、人の悲しみを見つけてそこに寄り添ってあげようと、ほとんど本能的にできる人がいる。それでそういう人というのは、私の現在までの統計上、辛いことを体験したことがあって、鋭い感覚器を持ってる人という条件を備えていることが多い。これは2つの別の条件なのではなくて、何を体験するにしても鋭い感覚器で体験するというところがみそなのかも。同じような辛い体験をしても、感じにくい人だとそうはならない。でもその分本人は楽に生きられる。楽に生きられない方の人、哲学や芸術の先輩たちの中にたくさんいるけど、ニーチェとか、ゴッホ、ベートーベン、シルヴィア プラス、ヴァージニア ウルフ......、突き詰めようとしたら本人が崩れちゃう、いつもだいたい苦しんでいる、そういう人たちと共通するやつ。ミッテンくんは悲しみ感知能力に優れた、鋭い方の人だったと思う。でもとても不器用で、意味が分からない。ミッテンくんとのコミュニケーションは、当時の私にはとてもむずかしかった。それでほとんどいつも失敗していた。

 ミッテンくんは、陸上の好成績から、スポーツ推薦で高校に入った。そこではミッテンくんの学業成績が平均より低いを理由に周りから下に見られるということもなく、陸上で活躍するほど認められて、とても充実したようだった。記憶ある限りの学校生活で初めて、尊敬されて充足感を得ているようだった。それまではいつも満たされない様子だったから、その変化は私にも嬉しかった。嬉しかったけど、ほっとかれるので寂しかった。もう私のことを特別に思ってくれてるのかどうかもわからなかった。

 まだ高校の途中だったけど、横浜にいた父のところへ行きたいと主張したのは、ミッテンくんに、ええ?いなくなっちゃったの!?っと思ってもらいたかったからというのが大きかった。それ以外の理由がなんだったか、もうほとんど忘れてしまった。そうだ、母がしんどそうだったからだ。父が単身赴任の間、分家の家長を務めてますの状態が重荷だったようで、母コケコワンが電話中に倒れるという事件があった。もう5人家族のうち、父東京勤め横浜の社宅暮らし、兄1東京の大学、兄2苫小牧の高校で、札幌に残っていたのは、コケコワンと私の2人だけだったから、札幌はもうひきあげて、横浜でドッキングしたらいいんじゃない?という提案のつもりもあったのだった。少しだけ。それで、そう決まった時には、え、本当にするの?という感じもあったけど、高2と高3の間の春休みに、コケコワンと私は横浜へ引っ越すことになった。