中学1年生。入学して間もない、浮ついた感じが全体を包む日々はもう少し続いた。
 
 部活お試しウィークがあり、みんなの話題はそれで持ち切りだった。かどうかは知らない。私はその会話の輪には入ってないから、時々聞こえてくるだけ。でも聞こえてくる中に、あの部がどうだった、やっぱりあっちもよくない? なになにくんと同じのに入りたい~、野球だったら無理でしょう?ソフトならすぐ横で練習するよ、ユニフォームもかわいいし~、でも先輩こわいんだってー。などなど。

 私はバレーボールが好きだったけど、チームスポーツはもうやりたくなかった。春日井の小学校でやったバスケットで、もう生涯チームスポーツは修了でいいと思っていた。女子のクラブのチームのぎっちりした塊にもう入りたくなかったし、自分のいい加減なプレイのせいで相手に点をいれられたと、責められはしないけどみんながそう思ってるとか、そういうちっちやいことがまた世界を変える一大事のように扱われる中で、自分もそう感じてるようにしてなきゃいけない。もうしたくなかった。だって、ボールを、あっちのかごこっちのかごって入れるだけじゃん、と。遊びでしょ?とは死んでも言えない。 

 陸上部に入ることにした。小学校の時、一度選抜されて地域の陸上大会に、ハードル代表で出たことがあった。あれはただ走るよりちょっとおもしろかったし、マラソン大会では小さい頃からいつも4位ぐらいまでに入った。だいたいこれなら自分の成績が悪くても、ミーティングで反省させられるようなことにはならない、そう思った。陸上部に入ったらすぐ、練習メニューも一応ちょっとちがったりするので、自分のやりたい種目をすぐに決めることになっていた。私は短距離はいまいちで、陸上部の中では同じ学年で一番遅い方。100メートルで17秒をきったのは、私を喜ばせたかった女の子が計測を担当した2回だけだった。長距離の方が向いているのは知ってたけど、顔を真っ赤にしてゼーゼーゼーゼー練習する先輩たちをみて、あれをやりたいと思えなかった。苫小牧にいた(4年生途中)頃までは、負けず嫌いで、一つも誰にも負けたくないという気持ちが常にあったので、(無駄に)がんばれる底力があった。それがいくつかの転校で、諦めたり抑えたりすることを覚えると、急にでてきて全身にみなぎって他のことには目もくれなくさせる、あのパワーはもうなくなっていた。盲腸の手術をしたあとに、ほとんど運動なしの2か月のあとで急に走ったマラソン大会で28位とか、つまんない順位をとっちゃったのも、もう長い距離をえっさえっさがんばりたくないきっかけになった。冷静になったというか、なにもそれほどがんばらなくなった。それは自分ではあんまり好きじゃなかった。けど覆そうという魂パワーはなかった。ハードルをやることにした。

 サッカー部の男の子から、陸上なんて走ってるだけじゃん、なんであんなのやるの、おもしろい?と聞かれたことが何度かある。その問いには、グラウンドのサッカー部の練習スペースの一部が陸上部と共有になっていたから、この際陸上部が全員自分たちのやってることはおもしろくないことだと気づいて陸上をやめて、陸上部が解散になって、サッカー部が自分たちの土地を快適に使えるようになれたらいいなぁという夢がこめられていたのかもしれないけど、それは結構野心的過ぎだったと思う。陸上はそのシンプルのところがいいんじゃないの?あの時の男の子たち。人生そろそろ50年、君たちにも今はその良さがわかるかい?

 私はその陸上部で、練習にはピアノのレッスンの日以外休まず行って、あまりダラダラお喋りしたりせず、やることをやったので、先輩たちから...... そういえばこの時のピアノの先生は、大学を出て間もないまだ20代の若い先生で、しゃべりながら長い髪の毛をクルクルしたりするのでうざいなと思うときもあったけど、ピアノはちゃんと教えてくれた。私が練習していかないと機嫌を悪くして、それを隠そうともしない。そういう時よくため息まじりに、私がピアノを人生のどの辺の位置づけてるのか、聞いてきた。やめるのか、遊びでやるのか、ちゃんとやるのかと。私は遊びとちゃんとやるの間、遊びに近い方、ぐらいで考えていたけど、先生は不満だった。聞かれてそう答えると不満という毎度同じ結果になるのに、この会話は何度もした。よかったのは、先生が私を一人前に扱ってくれていたこと。レッスンには親もついてこないので、先生も親向け演技をはさむ必要がなく、私に弾かせてる間に化粧を直したり、ストレッチしたり、予定表を見たりしてリラックスしていた。それでも、あ、そこダメ!と何をしてる途中でも戻ってきて、ボールペンで私の手を止めた。そのあとそのペンで、楽譜にぐりぐり印をつけた。この先生に習っている間、楽譜は結構汚らしくなった。私はこの先生が好きだった。

 すみませんけど、陸上部の話はおいといて、先にこのピアノの先生の話をもう少し。
 クラスで合唱曲を練習する時、私はだいたいピアノ伴奏を担当した。習ってる人~から、やりたい人~、になって、もう1人の子と一曲ずつ担当する。そしてお互いの補欠もするので二曲とも練習しておくことになる。曲が決まると、いつもボチャ先生(私の当時のピアノの先生。仮名。)にみてもらった。ポチャ先生の指導を受けた私のピアノは、他のクラスの伴奏者の演奏より評判がよく、音楽の先生にも褒められた。中3の夏に陸上部を引退したあとでは、合唱部の先生にスカウトされて、秋のコンクールまでピアノ担当サービスをした。専門家に気に入ってもらえるのは嬉しかったし、文学部は運動部と全然雰囲気が違っていて、おもしろ体験だった。その時今年は行けるかも、とやる気をだしていた合唱部顧問の音楽の先生が、男性パートを歌わせるためにいい声の男子を4人スカウトしてきていた。、同じように陸上部を引退したばかりのミドルウエストくん(あるいい声の男子の名前。仮名)がその中にいたので、ボーナス倍の倍みたいに嬉しかった。ミドルウエストくんは、私の苦い苦い初恋の相手だったから。

 

 けどピアノで大学を目指すとか、高校は音楽科のある北星高校を目指すべきとか、まみもちゃん音痴だけど声はいいから練習したら声楽科でいい位置につけるわよ、声楽科なら今のピアノで十分だし、とポチャ先生が提案してくれることは、夢の世界みたいで、現実味に乏しかった。北星高校は私立だったし、セーラー服の襟の角に星がついてるのが私には可愛すぎて似合わないような気もしたので、そういう進路もあるそうですよとは、親に言いもしなかった。ポチャ先生から、え、まだまみもちゃんから聞かれてなかったんですか?と電話で話をきいた母コケコワンはむっとした。むっとしたの理由は、私の進路にそんな方向があったことを知らせもしないで、今からじゃ準備が間に合うかどうかもわからないじゃない、どうする?音楽やりたいの??というんでは全然なく、先生からお母さんに話してね、と何度も言われていたことを私がコケコワンに話していなかった、それがちゃんとした子がするような行為ではない、と、彼女はそこの部分に腹を立てていた。父オクニユタカはまた転勤になって横浜で単身赴任をしていたので家にいなかったし、兄1のせそしは近所のセイコーマートでバイトをして悪のバイト仲間とつるみすぎが親たちの頭痛の種だったし、兄2のゆよやが、アイスホッケーをもっとやりたいとか言って高校から一人で苫小牧に住んだりしていて、家には多分経済的にも心理的にも、私のそんな進路の余計な可能性について、興味がある人はいなかった。

 普通の高校の普通科に入ったことでは、ポチャ先生を多少がっかりさせた程度だったけど、高校1年の途中で、つぶれそうだったバレー部にヘルプで入った時には、悲鳴を上げられた。あのスポーツ、突き指とかするのよ!みんな白いの巻いてるじゃない指のこの関節のところいっぱいに、こんなに太く!と。でもその頃には私の人生におけるピアノの位置づけは、やめると遊びでやるの間で、やめるに近い方ぐらいになってたので、だってつぶれちゃったらかわいそうだと思って、とごにょごにょ言うしかなかった。あなたの指がつぶれることについてはどうなの!?と目を血走らせてくれたポチャ先生。結婚できたかなぁ……。