テンプライ家(私のオリジナル家族の苗字+家。仮名。)にあったもの:
食欲、食事、洗濯された衣服、秩序、
掃除されている部屋、
ちゃんとほぼ毎日空になるゴミ箱、
季節の飾りもの、時々花、
お客さん用の食器、イライラ、
争い(自分の方が格上だと相手にわからせなければいけない)、
抑えつけられる、睡眠、必要なものを買うお金、
当たり前だろう、
なんでできないの?
どうしてそうなの!
テンプライ家になかったもの:
お互いを応援する気持ち、お互いを認めること、
コミュニケーション、助け合うこと、
がまんはここまででいいですよ、というセイフティライン的なの、
協力、
寝る以外ですごくリラックスすること、
よく他の家族にある強いつながり的なもの
家で、私学校であんまり楽しくないとぼやくことはなかったし、相談もしないので、あれ、お前そうなの?も、アドバイスも出てこなかった。私は山下真司がでていたスクールウォーズというドラマが大好きで、その中で『一人はみんなのために、みんなは一人のために』を初めてきいた。なんて素敵なんだろうと思った。けど、それはテンプライ家の家訓ではなかった。親から子方向はわからないけど、少なくとも子供間、それと子供から親のベクトルで、心配したり、幸せでいてほしいと願ったりする基本的なあったかい気持ちは、存在していなかったと思う。もっと早い段階ではあったかもしれない。そうだったとしても、あの狭い社宅に移り住んだあたりではもうなくなっていたんじゃないかと思う。
いや、違ったかもしれない。二番目の兄(だけ)が母に対して優しい気持ちを見せたという逸話を、何度も何度も何度も何度も母が話していた。まだ苫小牧に住んでいて、冬に会社のバスで札幌かニセコへスキーに行ったときのこと。家族の誰もろくにスキーなんかやったことがないのに、なんでもとりあえずやっちゃえの父に連れられて、全員が長いリフトに乗って上の方まで行った。リフトを降りるとき、私はもちろんうまくできず、転んで、リフトが止まる。兄たちから恥ずかしいからこっち向くなと言われる。
コースの始めで、そら行け、と父は言うだけ。自分が先に行って手本をみせようと思ったらしいが、ターンがうまくいかなかったようで、猛スピードで小さくなっていき、すぐに見えなくなった。その先で大きく転んで眼鏡をなくしていたらしい。私は当時ボーゲンしかできなかったので、それをするだけ。足をハの字に開いてまっすぐに滑って行った。(※普通は、ゲレンデをまっすぐには滑り降りません。山道のようにターンを繰り返しながら、優雅にジグザグを描いて滑ります。)まっすぐは、子どもでもすごいスピードが出る。途中で帽子がずれてきたのを直そうとかいう余計なことをしないときは、そのまま転ばずに下まで一気に行きつくことができたときもあったが、大抵は途中でバランスを崩して派手に転んだ。そのへんの大人が、起きるのを手伝ってくれて、外れたスキーを取ってきてはかせてくれた。止まるとかターンをするとか、そういう技はまだ何も持ってなかった。アドレナリンがたくさんでて、一日中興奮状態だったんじゃないかなぁと思う。昼食の時に、声が大きいと怒られた。母が降りられずに困っていたのを知らなかった。母は運動音痴なので、もちろん滑れないので、あんな上に連れていかれて困るのは、容易に想像できる。でもコースにスキーをはいてストックを持ってる母がいる絵がでてこない。全く記憶にない。多分私は母のことを見ても探してもいなかったということだろう。後日母談では、二番目の兄のゆよや(仮名)だけが母のそばに残り、ここまでこれる?と声をかけながら、少しずつゆっくり降りて行ったそうだ。上の兄のせそし(仮名)がその時何をしていたか、それも知らない。
母が、誰も乗らないはずの降りていく側のリフトに一人だけ座っているのは見た記憶がある。見て笑った。信じたくないが、笑った自分の顔のほっぺの筋肉があがる感覚の記憶がある。はははと声にだして、本当におもしろいものを見るように笑ったんじゃないかと思う。悪人の心だ。あとから得た情報によると、あれはゆよやが手伝って、時間をかけてなんとか滑って降りたコースよりもっと難しいコースについてしまったリフトで、母はこれはありえない、絶対に無理と、父に訴えたあと、リフトの人に頼んでおろしてもらうことにしたらしい。
「せそしとまみもはああだからねー。ゆよやはそうじゃないのよ。」は、母以外も誰かが言ってたんだろうか。耳に残っているけど、誰の声かはっきりしない。母の声で再生するとしっくりくる。けどここで、母を悪者扱いする雰囲気が出ないように注意したい。私になにか欠けているというか、余計なものがついちゃってるようなことについて、母は原因の一つではあるが、それよりもっと家族の全体的なあり方が根本的な原因だったのではないかと、ある時からは思うに至ってる。それに今は母に好意的な目線を向けて、よい思い出があれば引っ張り出したいのだ。だいたい母が私を好きじゃなかったのは、母のせいではない。上述のように私はひどい子供だったので、しょうがない。初めから母の好みのタイプでもなかった。でも私は子供だったんだから、誰かが教育してくれていればもう少しまともな心をした人間に育っていたかもしれませんけどねーとは思う。
その、まともなはずで、いち早く新しい学校と環境に溶け込んでいたように見えたゆよやも、心の中にグツグツを持っていなかったということはないと思う。短気だったし、ブチ切れてるときは、本当にアウトオブコントロールの感があった。
せそしとゆよやは、私をいじめるときは結託していたが、それ以外では仲が悪かったんじゃないかと思う。よくケンカをしていたし、2人が仲良くなにかしてるという情景は、春日井にいたときのサイズになってからのは、全然浮かんでこない。父の、ベリーストレンジな愛情が2人にバランス悪く注がれたせいだと思う。