Museum Mittwoch(博物館水曜日)の日、玲子さんとはたいてい11時に待ち合わせし、なにか観て、何か食べて飲んで喋って別れた。玲子さんのエリア=フランクフルトの中心部までは片道19キロあったけど、たいてい自転車で往復した。理由は、ジョギングをの代わりの運動にするため。ミュージアムの日の朝にジョギングしてると、シャワーと洗濯物を干すのと荷物を用意するののどれかが間に合わなくなるから。私がえっさえっさ体力づくりをしたところで、それを(まだ)誰かのために役立てられるということもなかったんだけれど、運動してよく動ける身体でいたいと思っていた。それと、街からは遠目のため、電車代が往復で10.9€(今のレートなら@160円で1,700円)ぐらいしたというのも、自分が遊びに行くだけのために使うのが悪い気がした。こういう考え方は変えた方がいいと思うんだけど、主婦(夫)をしてるとそういう風に感じやすい。服や靴が欲しいときも、夫にプレゼントを買おうと思うときも、一円も稼いでない私が?というのがある。これはほんのちょっとしたことなんだけど、人間の尊厳とか自己尊重とか難しい言葉にも言い換えられるプチで大な問題かもしれない。

   

 

 

 じゃあこれからは、一円も払ってはもらってないけど仕事はしてる、と思うことにするのはどうだろう。それかもう、主婦(夫)に家計から報酬を払っちゃったら......? 色々議論できると思うけど、そもそも主婦(夫)という存在自体がもうそろそろ絶滅しそうだから、こんな小さなもやもやはすぐに過去のものになるかもしれない。



 街にむけてチャリンコをこきこきしてる間、下り坂のリンゴ畑や、栗が大量に落ちてる通り、そのうちよさそうなのを拾ってるおじさん、三匹の子ブタの三男坊が建てたみたいなレンガの家が固まって建ってる区画、トルコ人の食品店きれいなオクラ売ってるな、あのでっかいパンすぐ固くなるけどその日のうちに食べきるのかな、高架の線路とトラムと車で道がごちゃごちゃしてきた、クラクションの音が多い、そんなに急ぎます?、ちょっと危ないわねえ!……、と、田舎から街へ、景色も自分の心具合も変わっていく。

 

 

 待ち合わせの場所に着くころには、体温は上昇、汗ばんでるし、化粧は流れ去り、髪もだいたいぐちゃぐちゃになってる。遠くから出てきた感がよくでていたと思う。でも私には自分が見えないのであまり気にならない。食事の前にトイレに行ったときに初めて、自分の乱れ具合に気づいたりする。玲子さんはいつも超おしゃれ。上海の頃にもう時代に先駆けてカラーや骨格診断などを勉強して、その後アメリカでも関連の仕事をして活躍してた。私からは遠く輝くファッションの専門家で、まぶしく、いつもすごくかっこよい。そんな彼女が、汗まみれのボーボーの私が目に入って、一緒に歩かなきゃいけない方。申し訳なかったなと思う。

 



 美術館や博物館は、平日の昼間なので、それに最初の頃はまだ少しコロナの影響もあって街にいる人自体が少なかったこともあり、いつもとても空いていた。作品の前に好きなだけ立って、ああだこうだ言い合ったり、静かにしてその作品や作者と交信できてるような気分を味わうこともできた。説明書きがドイツ語しかない博物館では、書かれてるうちの英語に近い単語から、内容を推察するしかない。それとあやふやな知識と展示物の雰囲気で、こういうことなんじゃない?という仮説をたてて話し合うのは、とてもおもしろかった。いつもの生活では届かないところが刺激される感じがあった。その場、空間からも。こんなことが日常的にできて、とてもラッキーと感じた。

 



 フルタイムで働いている人には、特に玲子さんの旦那さんや日本の多くの人みたいに、ものすごく働いている人たちには、こういう時間を持つのが難しいだろうと思う。でもそういう人こそ、こんな時間を持てたら、次の日以降をうんといい気分で始められるんじゃないかと思った。コロナのとき、エッセンシャルじゃない、という理由でアートがどんどん止められて行ったけど、人間にはアートが必要だと思う。音楽も、博物館的な知識やインスピレーションも。それでそういうのは、ギャラリーとか美術館や博物館にだけあるんじゃなくて、その辺にたくさんある。小さなちょっとしたものにも入ってる。だけどそういうのに気づいてよろこべるようになるのには、慣れというか目というか、練習みたいなのもいる。忙しい人はそういうのが持てない。時間がない。余裕がない。もう少し休みをとれるといいのにと思う。

 

 



 一方で、私が頭の中のものを膨らませ過ぎできゅうきゅうしたりするのは、時間と余裕がありすぎるせいかもしれないと思う。今日食べるもの、今日寝るところの心配があって、働いて食べて払って寝てをシンプルに繰り返していたら、こんな風になってる暇はない。

 

 働く人は忙しシンドローム。

 私は暇シンドローム。