3階と地下のある家に私たち家族が越してきたのは7月で、玲子さんは同じ年の4月からフランクフルトに来ていた。その10年ほど前まで上海で仲良くしていた玲子さん夫妻が、カリフォルニアから転勤してきていたのだった。超嬉しい偶然で、お互いにフランクフルトへ越すことがわかった時には、LINEできゃあきゃあ喜びあった。
 

 

 

 私たちの家は、フランクフルト市内ではなく、郊外というか、別の市にあった。子供たちの通うことになる学校がフランクフルトの西の端にあり、家はそのさらに西にあったので、そういうことになった。家族の誰も街へ行く用はなく、都会のせまいアパートに住むより、スペースのある方をみんな好んだので、それでよかった。玲子さんは旧市街のど真ん中の、観光客のツアーが毎日下を通るようなところに家を決めていた。玲子さんの方は旦那さんと二人だったし、便利な方が断然よくて、あと食事に行ったときに二人ともお酒を飲んでも徒歩で家に帰れるところが希望だったようで、そこがとても気に入っていた。うちから玲子さんちまでは、電車で1時間ぐらいかかったので、玲子さんに会うことだけを考えたらもうちょっと近くだったらよかったなとも思ったけど、しょうがない。

 

 

 

 私たちが住んだ町にもとてもかわいらしいオールドタウンがあって、タパスの美味しい小さなスペイン料理屋や、おもしろいウェイターのいるイタリア料理屋と小さなショッピングモールがあったりして、町自体は快適だった。それに加えて、山が近くて、森の四季を走って楽しめた。ぼんやりしている仔鹿に出くわすこともあった。山の手前には畑地帯も広がっていて、季節が来ると麦や菜の花で一面が染まる。少し丘になっているところは、美瑛のラベンダー畑のようだった。

 

 残念ながら、今はそこに住んでない。大家さんが家を売るというので、出なければいけなかったから。

 



 フランクフルト1年目、玲子さんと私はミュージアムカードという市内の博物館年間パスのようなものを買い、対象の39の博物館のどれかを訪問する+その日学んだことのラップアップミーティング(という名の主にランチ、ワインかビール添え)というパターンを、だいたい1週間に1回の頻度で繰り返した。水曜日。Museum Mittwochと名付けた。

 

 2人とも当時は専業主婦だったので、昼間自由にできる時間があった。それで2人とも英語は大丈夫だけどドイツ語は全然だったので、仕組みや求められてるルールがわからず、失敗することもあった。でもとてもお気楽で楽しそうだと思われそう。実際にいつもとてもすごく楽しかった。東洋人中年女子2人組がえらくはしゃいでいるので、お店の人や係の人、道行く人に微笑まれることも、批判をこめて凝視されることもあった。

 



 まだ少しコロナだったし、お互いがいなかったら、とても退屈で孤独なフランクフルト生活の幕開けだっただろうとよく話した。駐在の夫や子供たちは、新しい土地で、会社や学校で必死になじむように努力するところから始まるが、妻の方は何も始まらない。家族も友達もゼロ、言葉もゼロのところで、前の土地でまあまあ活躍できていた仕事やボランティアもできなくなって、またゼロからスタートする。またこれか、今度は何をしたら?という感じになる。現地語も英語も使えない奥さん(や主夫の旦那さん)の場合は、もっと大変。できることの範囲が狭まり、子供の学校の親つながりや、パートナーの会社の人情報やお助けがライフラインになる。初めは。その後どのくらいイキイキできるかについては、全部その人次第。遅ればせながら言語をがんばって少しずつ基礎を構築していく人もいるし、言語は諦めて情報を駆使してやっていく方に進む人もいる。日本食スーパーで高い日本食材を買って、昼間は日本のテレビや動画を見て、日本の人とだけ交わって、日本で暮らしてるように暮らして、本帰国の日を指折り数えて待つような人もいる。

 

 人は、気楽で楽しければ幸せというわけではない。虚無感がすごいのだ。でもまずは、家族の好きなご飯を作れるように、そういう食材をなるべく適正価格で調達できるところを知ろうとし、ゴミの出し方を学んで、近所の人とうまくやり、日常生活が回るようにする。そういうところから。玲子さんも私も、この土地で何をしようかどう生きようか、の課題については、そのあと少しずつ向き合うことになる。