でも彼はそれをやってのけて、私の契約は終わることになった。

(何をやってのけたかについては、昨日のところをご参照 → トモミャーノ (ameblo.jp) 3

 

 ほほう、と。

 こっちもそんなに冷静ではなかったけど、少し経つと、そっちがその気ならこっちにも考えがありますという気持ちもでてきた。おばはんをなめるでない。でも帰り道ではまだ、その新しい気持ちは安定的ではなかった。

 

 ロッカーの荷物を急に全部持って帰ることになったから、リュックは大きくかっこ悪く膨らんでる。上もしまってない。チャリンコで駐車場のゲートを出るとき、キッチンのスーシェフのデニスが煙草を吸ってるのが見えたけど、涙がでそうなので、またねと声をかけに行けない。デニスは、私がキッチンにいくといつも、「マミ~モ~(私の名前。仮名。)、マイラブ。Eat this. Here」と言って、その日のイベント客用に用意してある小さなデザートや、オードブルを食べさせてくれた。時間に追われて忙しそうなのに、小さなスプーンも出してくれる。フロントで接客中の私の前を通り過ぎるときには、いつもバッチンと大きくウィンクをしていった。シェフらしくちょっと太っていて、研修で初めて会った日には、前に大きく"Never Run"とプリントされてるTシャツを着ていた。鼻の部分が長い顔とオレンジ色の髪のせいで、ライオンに似てるなといつも思っていた。本人にそれを言うと、ライオンキングでシンバが王になったときのように、フゥガーゥオーーーと雄たけびをあげてくれた。いつもすごく楽しかった、どれも美味しかった、ありがとう、と言いたかったけど、感情大噴火がおこりそうで、遠くから手を振るしかできなかった。デニスからは投げキスが飛んできた。

 

 暖かい午後だったので、マイン川沿いには散歩の人が多くて、きゅいっとハンドルをきってよけると、リュックのてっぺんから一番上の裁縫用具の箱が落ちたりする。アスファルトに落ちて、カンカラカーンと全然必要でない大きな音をたてる。どうぞと拾ってくれた優しい人に、ダンケを言うと涙が落ちた。

 

 

 いやらしいとは思ったけれど、おばはんはその後精神的に参っているを理由に、契約期間終了まで2週間あまり、給料をもらって仕事を休んだ。ちょっと実験的にの意味もこめて。オランダでもドイツでも、そんな風に簡単にズル休みできるらしいとはきいていたけど、そんな都合のいいこと本当にできる?そんな人に優しい社会ある?と半信半疑の部分もあったので。それと、お告げは急だったし、実際に、なんでなんで?いい仕事してたよね?なのになんで?とショックだったし、突然理由なしで君とは別れると言われた人の雰囲気で、とてもダメージを受けていたのも本当。そう考えると、欠勤の理由はそれほど嘘ではなかった、と半ば自分に言い訳する。休んでる間も給料が支払われるようにするためには、お医者からシックノートという病人の証明みたいなメモをもらって、会社に提出するだけ。シックノートには、病名も詳細も書かれない。何日までは仕事に行けませんとだけ記載される。とても簡単だった。

 

 身体は元気だったので、毎日えっさえっさ山コースを走った。玲子さん(仮名)に前から誘われていたヨガにも行くことにした。遠くて朝早いんだけど。アシュタンガヨガ。自分の呼吸と動きに集中することで、自分を捕えている思考から解放される時間を持てる。それがとてもよく効いた。それで少しずつ回復した。次の仕事が見つかるまでの期間を、ドイツ語の改善とそのヨガに打ち込むことに使うぜというプランもできた。



 その一年以上前に、私を採用したのは、この小ボスよりずっと上の大ボスだった。スキルは学んで身に着けられるけれど、パーソナリティ(人そのもの、というニュアンス)はそうはいかない。僕は君のパーソナリティが欲しい。多様性に重きをおいているので、あなたが若くないということも僕にとっては大事なこと。あなたが経験で学んできたことをぜひ同僚たちに教えてあげてほしい。日本人がフロントにいるホテルなんて、フランクフルトでは僕のホテルが最初になるんじゃないかな、とはりきっていた。

 

 多様性を持とうとしたら、セットで受け入れなければいけないものがある。それは主に寛容。若くない人を雇う→家族がいるかも→勤務時間にほかの人よりリクエストが多いかも、できるところはできる人で調整しよう、は、こっちの会社や社会全体では、とてもよく受け入れられていると思う。私の小ボスがたまたまそうでなかった。大ボスは違う考えだったと思うけれど、わからない。中ボスか中小ボスが小ボス寄りだったのかもしれないし、ただ解雇の理由の数を増やしたかっただけかもしれない。

 

 ドイツ語は、働いていた1年間でリスニングだけが改善した。他で進歩がなかったのは、私のそのための努力が足りなかったから。もっとできたはずの努力をしなかったことについてのの言い訳はいろいろある。8時間45分ハムスターのようにクルクル働いて帰ってくるだけでとても疲れていたというのもあるし、年だからできるようになるのに若い時より時間がかかるということもある。帰ったら家事がある。家が遠かったことを足してもいい。でも好きな人ができてうつつを抜かしていたというのも本当。なにをしたということもないけれど、頭の中が常にいっぱいになっていて、勉強する気にならなかった。

 できることをできるだけやっていたら、きっともう少し喋れるようになっていて、クビにもならなかった。結論は、私が足りなかったということだ。