2026.1.27~4.12
その後、山口、愛知に巡回
本展は、19世紀後半から20世紀初頭にかけてのスウェーデン絵画80展で構成された初めての試みである。
関連講演会のテーマ『アウグスト・ストリンドバリ』

スウェーデン絵画の黄金期を扱う展覧会のなかで、ストリンドバリがどのような位置を占めるのか。その人物像と作品を通して、近代スカンディナヴィア美術の特質を読み解く内容となっていた。
講演を担当したのは、スウェーデン国立美術館展覧会部門ディレクターのパール・ヘードストゥルム氏。
カール・ラーションに代表される画家たちは、民話や伝統に目を向ける一方で、ジャポニスムや新しいモダンな感覚も積極的に取り入れていた。

その流れのなかで、ストリンドバリはスウェーデン絵画を語るうえで欠かせない存在として紹介された。ただし彼の本業は画家ではなく、ジャーナリストであり文筆家である。生涯に描いた絵画はおよそ120点ほどとされ、現存作が少ないことや作家としての名声もあり、作品は高額で取引されている。2022年に《波 IV》が約9億8000万円で落札された例も挙げられた。

1849年生まれのストリンドバリは、労働者階級の出身であることを強く意識していた人物で、「使用人の息子」など自伝的要素の強い作品も残している。1879年の『赤い部屋』で作家として名声を確立し、「令嬢ジュリー」では自然主義を極めた。しかし1890年頃には精神的な危機、いわゆる「インフェルノ危機」に陥り、執筆が困難で錬金術にハマるなどメンヘラな時期を迎える。
講演では、ストリンドバリにとって「言葉が書けない時期」と「絵を描く時期」が重なっている点が重要なポイントとして語られた。彼は木、空、地面、水辺といったモチーフを繰り返し描き、当時暮らしていたストックホルム群島の風景が作品に反映されている。
1890年代の絵画では、パレットナイフを用いた短時間での制作が特徴的で、荒れた海や航海の目印となるブイが描かれている。こうした作品について、美術史家のあいだでは、彼自身の孤立や孤独、不安定な精神状態が象徴的に表れているのではないかと考えられてきた。

これらの作品は当時から賛否を呼び、新聞では「見物人をからかっているのではないか」と評されたこともあった。岸辺の描写が、食べ物のように見えると揶揄された批評があったことも紹介された。
ストリンドバリは、絵画の解釈においても独自の視点を持っていた。スウェーデンの歴史画について、一般的な善悪の構図とは異なり、階級主義に抗する民衆側の視点として読み替えた例は、彼らしい思考の表れとして語られた。

ストリンドバリの愛した歴史画
1880年代にはカール・ラーションと親交を結び、フランスのグレ=シュル=ロワン村で共に過ごした時期もあったが、最終的には深刻な対立に至る。ストリンドバリの死後にラーションが残した激しい言葉も、二人の関係の複雑さを物語っている。
1890年代にはベルリンに移り、ムンクなど当時の芸術家と交流したが、妄想に悩まされることもあった。

ジャーナリストのフリーダ・ウールと出会い、短期間で結婚するが、関係は当初から難しく、「嫉妬の夜」という作品を婚約の贈り物として描いている。

文章表現においては完璧を追求した一方で、画家としては自らをアマチュアと認識していたストリンドバリ。それでも彼は、言葉にできない状態のときに絵を描き、パレットナイフで色を広げながら、変化し続ける作品を生み出そうとしていた。
講演を聞いて印象に残ったのは、ストリンドバリにとって絵画が「表現の本流」ではなく、言葉が機能しなくなったときに現れる、もうひとつの出口だったという点だった。完成度や美しさよりも、切迫した内面の状態がそのまま表れているように見える彼の絵は、展覧会のなかでも異質で、同時に強く記憶に残る。
スウェーデン絵画という枠組みのなかでストリンドバリを見ることで、北欧美術の静けさや明るさだけではない、切実で不穏な側面にも目が向いた講演だった。
