俳句の定石について | 友野雅志の『 Tomoの文藝エッセイ』

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碁には定石がある。それをうつと間違いが少ないという教本である。書店で、碁の打ち方に関する本をいくつか開くとわかる。それは、これまでの歴史で、これは間違いが少ないという教えである。

俳句にもそれがある。いくつかの主宰あるいは俳句誌の責任者が書いた本を読むとそれがある。

例えば、次のような感じである。
*季語は一句ひとつまで。
*ひとつは季語を入れること。
*句読点は入れぬこと。

こういうこまかいルールに従うと、学ぶ方も楽しめるし、ルールに従うことが大切になると句を詠む時に楽である。添削する方もしやすいーーーーとわたしは思う。

この元を作ったのは正岡子規であり、高浜虚子である。負けず嫌いの正岡子規は政治家、哲学者、小説家でトップになれないとわかり、ならば、と選んだのが俳句である。初期の子規の俳句は江戸の頃の俳句と変わらない。どこにも新鮮さはない。
例えば次のような句である。

蓑笠を蓬莱にして草の庵


このころ、子規は「写生」はひとつの方法であり、その方法があるだけでは良い俳句の条件にはならないと気づくことになる。そこで季語に出会う。ただし、子規にとっては季語は俳句を装飾する言葉の選択にすぎなかった。彼は「実景を修飾する」ためだと書いている。

この時、子規は理想に生きることを諦めたのではないか、そこから近代俳句は始まったのではないか、とこれまでと違う視点から考えても良いのではないだろうかと思う。

わたしたちは子規のところまで戻っても良いのではないだろうか。

ここに上げなかったのは、俳句は五七五の音の並びを「基本」とするということであり、上げる意味がないと思ったからである。

先ほどあげた俳句のルール違反であるが、歴史的に有名な句人が行なっている。

*季語は一句ひとつまで。
目に青葉、山ほととぎす、初鰹
      山口素堂

これはどうだろう?ルールを破っているが、いいではないだろうか。

*ひとつは季語を入れること。
しんしんと肺碧きまで海の旅
       篠原豊作

この句に季語はない。しかし、それがこの句の質を落としているだろうか。

*句読点は入れぬこと。
夜のダ・カポ
ダ・カポのダ・カポ
噴火のダ・カポ
      高柳重信

句読点を入れぬことは、行替えもありえないことになる。しかし、上の句はどうだろう。

もともと字余り字足らずをゆるしている俳句である。このルールに意味があるだろうか。

最後に残るのは、五七五の音数のリズムだけである。それも八五五、五五七等当たり前になっている。

しかし、わたしは、五七五のリズムを守ろうとする意思は俳句にむかう人びと全てに生まれてくるだろうと思う。人類の歴史でリズムがのこり続けてきたことと、日本語の音律が五七あるいは七五を基本に成り立ち二千年をこえてきたことを考えると、五七五を守ろうという感性あるいは身についているものは最後まで残ると思う。

それを過去の日本語のリズムから確認しようとおもなら、時枝誠記の『国語学言論』と三浦つとむの『日本語とはどういう言語か』、菅谷規矩雄の『詩的リズム』をひらくとわかりやすい。

五七は、5.4.3の音節に別れ、七五は、7.4.3あるいは4.3.3.2の音節に別れ、それぞれの音節が同じ時間で発声されるので、そこに言葉のスピードの変化が現れ、その変化が五七あるいは七五を心地よい落ちついたものにしていると言うと簡略しすぎだが、今はそれでいいだろう。

この心地よさは言葉のリズムなので残り続けるだろうと思う。

現代俳句は、そのリズムを大切にすることだけが重要で、他は偶然の作者の個性、それには客観写生等の理念やいろいろなルールまでふくむが、それに気づくところまで、すでにきているのではないだろうか、と最近思う。