来年、一万円札の肖像人物が福沢諭吉から渋沢栄一に変わります。

渋沢栄一は、明治政府の官僚として活躍をした後、現・みずほ銀行や現・東京商工会議所、東京証券取引所など多種多様な会社や団体を設立した人物です。

 

日本で一番初めに発行された一万円札の肖像は #聖徳太子 です。聖徳太子の一万円札は、1958年(昭和33年)12月1日から発行が開始されました。聖徳太子は、飛鳥時代の皇族であり政治家です。

 

我が国の聖徳太子の人物像は、教科書などで仏教を厚く信仰した人物とされてきました。

当時、教科書から「聖徳太子」が消えるということを聞き、飛鳥時代の歴史的かつ偉大な人物を削除することに、不思議かつ残念な思いになりました。

戦後、我が国の教育界は左翼が支配しているので、仕方ないかなと思っていたものです。

 

その後、YouTube動画で歴史学者である久保有政氏の説明を聞いて納得しました。

「聖徳太子」という人物は、実在した #厩戸皇子 没後200年経ってから、仏教僧によってつけられた名前です。なので、「聖徳太子」は、実在した人物ではないようです。

太子の死因は「天然痘」が定説ですが、名前が200年後につけられたこと。一族全てが蘇我氏に葬られたことから、暗殺説も浮上しています。

 

厩戸皇子は、蘇我馬子に暗殺された???

厩戸皇子は、仏教を取り入れながらも神道も厚く信仰し、日本の原型を作りあげた人物です。権力者の蘇我馬子は仏教を重んじ、皇族中心の政治を疎ましく思っていました。そこで神道を重んじた物部氏とともに、厩戸皇子を政治から排除するため暗殺したとするものです。

 

聖徳太子という名は、厩戸皇子の没後約200年後に、その怨霊を鎮めるために「東大寺」を建立し、同時に日本書紀編纂にあたり、飛鳥時代の厩戸皇子を担当した仏教僧が、厩戸皇子が神道を敬っていた事は都合が悪いので、仏教を広めた「聖徳太子」と名付けたようです。

 

当時、厩戸皇子の側近には大陸から渡来した #秦氏 がいました。秦氏は、我が国に酒造(日本酒)・絹織物(現在の西陣織)・土木建築などを伝え、日本の発展に大きく貢献しました。

秦氏は、古代イスラエル人でした。中央アジアの弓月(現キルギス)にいた際、ユダヤ教からキリスト教に改宗したと言われています。

また、日本最多の #八幡神社 や #稲荷神社 を建立したのも秦氏です。

京都はもともと天皇から秦氏に与えられた土地で、秦氏が土木技術を活用し、河川氾濫が著しく住みにくい土地を改良し、唐の都のごとく区画整備した街造りをしたのです。

 

#京都祇園祭の御輿には、日本には存在しない「中東やライオン」などが描かれた織物がかけられていますが、そのいわれを聞いても、昔からそうなのだと、誰も理由を知りません。

これは、おそらく渡来人「秦氏」の名残だと思われます。

 

秦氏のキリスト教は、「四科院」を伴い人々を平等に扱いました。四科院とは、「学問を教える事」、「病人を救う事」、「薬を与える事」、「貧乏な者に宿を与える事」を実行する組織でした。

私的には、厩戸皇子は側近であった秦氏のキリスト教が四科院などで、人々を平等に扱い、救いの対象としていることに敬意を払うようになり、自らも敬うようになったのは自然ななりゆきかなと思います。

それ故、厩戸皇子は秦氏の影響で、名前を「厩戸(うまやど)」と自ら呼びました。

すなわち、これは馬小屋で生まれた #イエス・キリスト を示しています。

 

当時の仏教は貴族のもので、漢字を読めない平民は救いの対象ではありませんでした。

平民が救いの対象となったのは「法然上人」・「親鸞聖人」の登場を待たねばなりません。

 

日本人は、皆、結婚式や正月などの「お祝い事」の際は、神社に参拝します。日本人は無宗教といいます。しかし、無意識ではありますが、キリスト教に改宗した秦氏が建立した神社にお詣りすること。すなわち、厩戸皇子が崇拝したイエス・キリストを参拝していることと同じことになると思います。