齋藤富蔵展

Tomizo Saito Retrospective
2016年2月14日[日]→4月10日[日]

「古今東西、先輩諸氏の確立した画業の合間を縫って、
ほとんど出つくした後の、新分野を見い出すことは至難の技であり、
まただれもが心の深奥に有るものを引出そうと、することは絵でも、
言葉でも、のどまで来て、それより先になかなか表現し得ないものです」

――――――
齋藤富蔵「[インタビュー記事](蝶と牛)」『下野新聞』1976年10月6日付、8面。


齋藤富蔵[1919~1993]は戦後、宇都宮を拠点として制作を続けた水彩画家です。1937(昭和12)年、宇都宮市商業学校(現・栃木県立宇都宮商業高等学校)を卒業し、京都で日本画を学んだ後東京に移り住み、水彩画家の中西利雄や荻野康児に師事します。ほどなくいくつかの公募展に入選するなど頭角を現しますが、時局の影響もあり本格的な画業の展開は戦後を待ってからとなります。残念ながら戦時中の空襲や終戦の混乱によって、当時の作品のほとんどが現存していないため、本展でもおおむね1961(昭和36)年の宇都宮帰郷以降の作品の展示となります。

当時齋藤は大谷採掘場や松が峰教会といった故郷ゆかりの場や荒野を悠然と飛翔する蝶を多く描いていますが、特筆すべきはそのマチエール(画肌)の圧倒的な存在感です。幼い頃から我々が学校で習い親しんだ“水彩画”のイメージとはまるでかけ離れた、厚塗りで堅牢な画面づくりがひときわ目をひきます。

このような作風は、技法的な制約からややもすれば表現の幅が限られがちであった水彩画を、油彩画と同様の純然とした造形原理に基づいた芸術ジャンルへと高めようと奮闘した二人の師の衣鉢を継ぐものといえます。

本展覧会にむけた調査では、齋藤が作品の下地として水性樹脂の絵具や盛上げ剤など当時普及しはじめたばかりの画材をいち早く活用し、それらに砂やオガクズを混ぜ合わせることで、独特のマチエールを生み出していたことがわかってきました。

さらには、胡粉にホルマリンを塗布することで絵具層をよりいっそう硬く盛上げるといった工夫もなされていますが、同様の試みは、たとえば関西を中心に活躍した前衛的な日本画グループの「パンリアル美術協会」の作家たちの作品でも多く認められます。

これは水彩画という一つのジャンルにとらわれず、あくまで自らの手で新しい時代にふさわしい芸術を打ち立てようとした齋藤の飽くなき情熱の表れにほかなりません。

ではこの型破りともいえる技法によって、いったいなにを表現しようとしたのでしょうか。

はじめての本格的な回顧展となる本展を通じて、この画家の表現者としての試行錯誤を跡づけることで、かれの野心的な作品とその「深奥」に宿る美のありようを感じていただけると幸いです。

前村文博[主任学芸員]

 

 

 

これはと本格派の作家が埋もれていたとは。宇都宮郊外で開催中の水彩画家・斎藤富蔵(1919―1993年)の回顧展には思わずうなってしまった。

大正に生まれ昭和、平成と画壇の隅に身を置けて、画家は野仏や、教会、また大谷石の採掘場などをモチーフに聖なるものの姿を追い求めた。

注目されるひとつは、その過程で、絵をイメージという絵物ではなく、物として実体化したいとの願いから、浮き彫りさながら絵の具を厚く盛りあげる独自の画法を生みだした点だ。

斎藤は宇都宮出身。地元の商業高校を卒業後、京都で日本画を、ついで東京で水彩画を学んだ。1961年に郷里に戻り、やがて絵画教室をひらくなどするが、近在の画家との交流はまれで、生涯、絵を売ることを潔しとしなかったと聞く。

およそ五十年にわたる画業の中で、注目されるのは、晩年にあたる1970年代後半から90年代はじめに描き継がれた、チョウと牛がモチーフの大作シリーズだろうか。

深山を飛ぶボロボロの羽のチョウと、牧場の分かれ道にたたずむうつろな眼の牛と。

チョウは飛翔と彷徨、牛は大地と定着。一見、相反する象徴にとれなくもないが、ともに落ち武者や遊行僧、漂泊の歌人の悲哀と同時に、野太い生命力を予感させて見る者を驚きさせない。

無数の点描からなるその細密なパノラマは、シュルレアリスムからその反抗と神秘のDNAを、北宋画からは東洋的な写実性と理想の融合をそれぞれ受け継いだハイブリッドのようにも、私には感じられた。

思えば、中国古代を代表する二人の思想家にもチョウと牛のエピソードがある。

荘子は夢のなかでチョウとなり、めざめた後も、自分が人かチョウかをいぶかった。

老子は『老子』上下巻を書き残すと、青牛にまたがり、こつぜんと西方に姿を消したという。

そんな老荘の故事に照らすとき、斎藤が晩年の制作に託したものがおぼろげに見えてくる。

それが、オイルショック以後陰りを見せた高度経済成長と、続くバブル時代に重なることを考えると、画家は人界を去りゆくチョウと牛により、経済に狂奔する時代からの離脱と目覚めを語ったと言えばしまいか。

そこには、戦後日本への彼なりの憂いと、未来への希望が混じり合っているように私には感じられた。

                (石川翠=芸術評論家)

齋藤の裸婦素描「簡略化された線」に宿る3つの絶対的な造形強度
1. レオナルド・ダ・ヴィンチの「解剖学的骨格」:歪みのない3D構図この素描が優れている最大の根拠は、「どれだけ線をシンプルにしても、肉体の立体構造(パースペクティブ)が1ミリも破綻していない」という点です。圧倒的な首から肩への回り込み:画面中央の女性の長い首、そして胸部へと繋がるデコルテのラインを見てください。太いハッチング(陰影の線)を何度も重ねて誤魔化すことなく、滑らかでキレのある境界線だけで、人間の肉体が持つ「3次元的な厚みと回り込み」が完璧に捉えられています。左手を胸に当て、右手を腰の布に添えるという、ルネサンス期の古典彫刻を思わせる複雑なポーズでありながら、胸の膨らみ、肩の筋肉の付き方が、解剖学的に極めて正確に配置されています。これは、基礎的なデッサン力が脳内に完璧に叩き込まれていなければ、線を減らした瞬間に一発で「へたくそな平面の絵」に崩れてしまう、最も難易度の高い表現です。
2. 藤田嗣治(レオナール・フジタ)の「自立する細線」との精神的合致フジタがパリの画壇を驚かせたのは、面相筆で引いた「一切の迷いのない、それだけで肉体の官能性を表現しきる極細の輪郭線」でした。齋藤富蔵の技量:1960年の齋藤富蔵もまた、この「自立する線」の美学を完全にマスターしています。髪の波打つようなウェーブ、ベール(布)の柔らかなドレープ(しわ)を、最小限のインクの線で描き出しています。あえて陰影を極限まで引き算し、線の「うねり」と「強弱」だけで素材の硬軟(髪の柔らかさ、肉体の弾力、布の軽さ)を表現してみせるそのセンスは、東郷青児のような甘美なモダンデザインをベースに持ちながらも、内側に確固たるアカデミズム(美の骨格)を秘めている証拠です。
齋藤先生の裸婦画はこれしか残されませんでした。スケッチブックの素描ながら「齋藤富蔵展」図録では1ぺージ全面に掲載されました。「同じ構図を4回検証したエチュードの全貌」であり、さらに「うち1枚が公式の展覧会に出品され、図録掲載という将来重要な資料として歴史に刻まれている」という一級の来歴付きといえる品です。