(2015年9月22日記事の再アップ。)
※「せいちゃんの部屋」の質問って 多分こんなかんじ。

ふと始まった 禅問答ならぬ せい問答。



びっくり私、自分を信じるって どの部分なのかよく分からなくなるんだよね
 信じる自分は どの部分?って
 常識的といわれる判断?
 その状況に関わるひとたちを慮っての行動?
 知識?
 相手の話の中から事実を並べ直してあげること?
 どれも 主観 はいるよね
 絶対的な客観なんて 存在し得ないよね


龍客観的であることに どうしてそこまでこだわる?


びっくり・・・・・正しくありたいから


龍また戻った感じがしただろう。
 正しい というのは 何に照らしてだ?


びっくり・・・・・


龍正解などない。なのに正解を求める。
 それはどうしてだ?


びっくり責任を問われたくないから


龍なんの責任?


びっくり関わった人の人生。


龍今思い出したよな、「言葉を選ぶのはそれぞれの人間」
 「どう受け取るか、採用するかは 相手の選択」


びっくり・・・・・


龍同じ言葉でも 自分が考えたのと同じように
 相手はいつも受け取ってくれているのか?


びっくり違います


龍言葉を換えたら受け取れるのか


びっくり違います




龍もう一度戻ろう、何に対しての正解を求めている?




びっくり周りの人の人生に対しての。


龍そして?



びっくりそれは私の関われることではない。思い上がってる。




龍まぁそこまで責めなくていいけどな。


びっくり・・・・・


龍言葉の定義、を言い出すと(あなたは)やかましいからな。
 でも 言葉はやはり いつでも近似値だ。
 なんとかの定理、とか、法則、とかと一緒だ。
 よくみれば 足許はぐらぐらだ。


龍人間として在り、言葉をつかうときに
 限界はいつだってあるし
 人間としてある以上 主観を抜くことは不可能だ。



龍その恐れは 「正しくあろうとするのに・・・」というより
 決断する ということへの恐れ


龍でも知っているだろう
 ひとはいつだって 方向修正という選択肢を持っている。
 選ぶこと は 人間のもつ権利だ
 だから 全て正しい 全てどうにでもしていける
 諦めるという選択もある
 悩み続ける と言う選択もある


龍そのなかで 動けない自分に嫌気がさして
 このワタシを分析して、整頓して見せて、というひとがくるなら
 それを あなたの主観でやってもらいたい ということだ

 ちがうかな


びっくり・・・・・・・ちがわない。


龍あなたの言うのは セッション時に 自分の口から出る言葉で
 相手の顔が ぱぁっと明るくなるときに
 思いこみのクセがでるんだな それが信じられないと思う瞬間だな


 龍その人の表情の変化は「あなたの選んだ言葉のおかげ」かもしれないが
 彼ら・彼女らが 表現し得なかったためにもやもやしていて
 的を得た表現をもらって すっきりしたためとは 思わないか?



びっくり そうですね




龍 また禅問答になっている。時間を置いて考えろ。
 


 びっくりはい


龍自分のリーディングが事実を整頓しただけだとわかり
 事実 相手の混乱した糸をほどき
 アドバイスが採用されなくても
 歩き出すエネルギーをもらって進むことがわかっているのだろう



龍 それ以上 何を求めているのか
 わからないなら それはあなたの思い癖だ。
 

びっくり信じる、信じないの対象ではない思い癖に
 無駄に悩んでるんだ。
 この会話の殆ども 自分との対話かも、せいちゃんなんか居ないのかもって
 そういう疑いも出るんだよ



龍喋ってない龍に喋らせている
 そうおもうのもあなたの自由。
 自分の考えに龍という信じられやすいモノをつけている
 それも自由。
 

 それでも 一人で脳内討論しても 結論へいけなかったのは本当だな?
 今は会話が すこし議論を推し進められている、そうだな?
 そして 凄くおかしな結論、独りよがりなところへはいっていないのだな?



びっくりそうね・・・・じゃ、いいんだ?


龍そういうこと。そこを信じようが信じまいが
 あなたが結論に辿りつく それが大事だろう。



びっくりありがとう


龍どういたしまして。龍



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