週末何かと忙しかったです。


移動距離的にも大きかったり、

久しぶりに会えたりとか、

たまたまバッタリ会えたりとか、

次の再開を楽しみにお別れとか、

行き慣れない場所に行ったりとか、




少し前の自分だったら、その一つの出来事で、かなりエネルギー消耗もしていたかな〜という感じ。


それは嫌な事ではない、

楽しい事でもすごく消耗していて、


鬱だったり、声出すの怖いとか、

対人緊張とか、

(対人恐怖と言ってたけど、私的には、対人超緊張の方がしっくりくるなと最近思った💡)


本来、会いたい、行きたいのに、

行くと、とても消耗もしてしまう。


ただ、私はチャレンジとして、

緊張したり消耗すると分かってても、

それでも行動はしていたのですけど。


これもチャレンジというより、

やる前、約束する時には、

自分がそうなるとはあまり考えてなくて、

実際になってその場で「大丈夫かな〜滝汗

となる。



2日間で移動も人と会う(たまたまも含め)も

相当な刺激になりそうだけど、、


あまり消耗感なく、

緊張も少なくいられたなと思います。


12年前から、ピーク2〜3年、

徐々に不安や緊張も薄皮を剥ぐレベルで、

楽にはなってきていたけど、、


この週末は、また一歩、

感覚が楽になってきたと感じられました。

もう少しうまく言語化出来たらなんですが)



今朝のbss初級/神の計画より

真の礼拝について


世界や周りを何か変えていきたいと思うものですが、実際、自分以外の意思あるものを変える事は出来ない。


力でねじ伏せていても、
それに従ってるだけで、
何かが変わった訳では無い。


教会もいろんな方いらっしゃる。
強い人もいれば弱い方も。


弱い方とは、ある意味、
心が弱い、病んでいるという方こそ
教会にいらっしゃる。


イエスキリストも健康な人は医者を要せず、私が来たのは、病める方な病める方を救う為だとおっしゃっている。


なので、教会に来たばかりの時は、
弱ってらっしゃるという事が多いですが、


いつまでも弱いままではいけない、
元気になって頂いて、


自分の足で立ち上がって、自分を良い方向に変えていく力を付けていく。


そして自分を変えていく事で、
成長する事で、
物事が変わり道が開かれてくる。



しかし、今の世の中を席巻しているのは
人間形成ではなく、


気分や感情が変わる事で、
現実が変わったような思わせぶり、


現実を伴わない妄想的なことが、

(内側が空っぽになっているのに気付かされないこと)市場や経済や宗教を席巻しています。


それが、現代のビジネスの手法となっている事も見抜いて頂けたらと思います。


気持ちの浮遊感や高揚感があったとしても、現実は変わっていない。 



また「区別」という概念や感覚が、
現代、薄れさせられている。


区別出来る事は大切で、

区別出来なくなるとは、
知識が奪われているという事。

(違いを見分けられない)

区別と差別は違います。
もちろん差別は良くない。


平等という言葉を用いながら、
区別する感覚を弱められている。




創世記1章


1.神は光を見て、良しとされた。
神は光と闇を分け、神は言われた。


水の中に大空あれ。水と水を分けよ。


神は大地を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。


神は言われた、


天の大空に光る物があって、
昼と夜を分け、季節のしるし、
日や年のしるしとなれ。


夜を治めさせて、
光と闇を分けさせられた。

神はこれを見て、良しとされた。


2.この日に神は全ての創造の仕事を離れ、
安息なさったので、
第7の日を神は祝福し聖別された。



「分ける」が5回でてきます。


聖別とは神に属する物とそうじゃ無いものを区別すること。





自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして捧げなさい。

これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。


これはパウロがローマの教会の方に宛てて書いた手紙です。新約聖書にある。


「いけにえ」とあると、
ちょっと良く分からないと思いますが、、


これが書かれたのは2000年前の、
旧約から新約に移行する時代の頃。
(もちろんその頃、印刷技術はまだない)



旧約聖書時代の礼拝について


そこに登場するのは幕屋(テント)、
これが礼拝をする為の施設。


それは移動式でした。


紀元前15世紀から続く
古代ユダヤ人の礼拝の施設。


この幕屋の前で火を焚いてます。


この火で家畜を祭壇で焼き、
神に捧げていた。
これを燔祭ハンサイと言う。


焼くのは、人間の付けた火ではダメで、
神から降った天から降った火で焼く。


ユダヤ人がずっと行っていた礼拝の形です。


後に、ソロモンが神殿というものに、
カタチを変えていきますが、
構造自体は全く変えていません。




(余談ですが)

日本の神社は古代イスラエルの幕屋と全く構造が一緒なんですね。



祭壇の代わりにあるのが賽銭箱。

参拝する人はそこまでしか入れない。


建物に入れるのは特別な祭司だけで、
中は2つに分かれています。


神社も拝殿と本殿と分かれていて、
共通しています。


これは、日本にしかなくて、
中国にも朝鮮にも東南アジアにも無い。




話を戻して、


紀元前の旧約時代から、今、我々は紀元後の新約聖書の時代に変わっています。




《旧約時代》   《新約時代》


 幕屋     /   教会

 祭壇     /   講壇

 燔祭の血肉  /    パンと葡萄酒



キリスト以前は幕屋において羊を捧げていましたが、

羊はやがてくる人類の罪のための犠牲となるイエスを表していた。


羊は清い動物。蹄ヒヅメが分かれていない動物は清い動物とされ。


ユダヤ人ユダヤ教は、
紀元前の旧約聖書のまま今もやっている。


イエスを認めていない、
これから救い主が来ると信じています。



紀元70年にローマ帝国によって、
ユダヤ教の神殿は破壊されている。

神殿があった場所には、現在、イスラム教の黄金ドームが経っているので、

ユダヤ人はずっとこの儀式礼拝が行えていない状況にあります。



現代社会は区別と差別の区別がついていない。区別しない、出来ないのは、
物事の本質が見えていないという事。


区別出来ない社会になると、、
それは危ない方向なのです。



そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエスキリストを通して捧げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。(ペテロの手紙)


ペテロとパウロは同じような事を言ってます。ペテロはイエスの1番弟子のような方。




「霊的ないけにえ」

霊的とは//

物質的ではない。目に見えないもの。



自分の体を神に喜ばれる聖なる生きるいけにえとして捧げる事が真の礼拝である。と殆どのクリスチャンは教えられていません。



真の礼拝(霊的いけにえとは)とは、


わがままを抑え、神の愛に従うために、
自分の考えや行動を、神の愛・聖書的に
変えていく。



そこに祝福の実も結んでくるのです。

言うのは簡単ですが、
実際するとなると難しいものです。


世の中の資産家と言われる人は、
側からは自由のように見えていても、


実際は欲の支配下にあり
自由では無い事も多いものです。


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