自分は変えられるけど、他人は変えられない

 

よく言われているセリフですよね。

その通りだと思います。

 

 

でも今振り返ると、

私はこの言葉の意味を間違えて理解してしまって、かなり振り回されたなぁと、思います。

 

 

 

思考はなにからくるか、というと

思考から感情が生まれ、その感情が行動を生みます。

 

私はずっと、自分のままで、

自分の思考そのまま、何も変えず、うわべだけで自分を変えるフリのための努力してきました。

で、頑張って相手の話をよく聞いたり、譲れる部分は譲り、自分が我慢することを選択し積み重ねました。

 

 

 

 

辛かったです。なんか違う、とも思いました。

自分に価値が感じられないから、人にも価値を見出すことができませんでした。

 

 

 

 

でもこころでずっと唱えてました。

私が変わるしかない、幸せな家庭を作るのなら、私が考え方を変えて、家族を幸せにする!

家族はお母さんで決まるから、私が頑張らないと!

 

 

 

 

根本的な気持ちとしては、それは愛から湧き出る感情でした。

でも、その愛は何ら変化のない家族に、我慢の限界を迎え逆ギレとなって形になってしまいました。

そして、我慢した分、期待した分、分かってもらえなかった

悲しみがドドーっと噴火し、怒りで表現されてしまうのです。

せっかくの愛情が怒りとして表現されてしまっていました。

 

 

こんなに私頑張ってるのに、何でわかってくれないの?

 

 

自分のことくらい自分でやってよ!

 

 

早く宿題やりなよ、ママもうしらない。勝手にしなよ。

 

 

 

ほんとうは穏やかな日々を家族で笑いあいながら愛情深く過ごしたいだけなんだよ。

 

何でできないんだろう?

もっと頑張らないといけないのかな。割り切らないといけないのかな?

期待するからいけないの?

 

 

 

 

今なら分かる。

私がしていたのは、依存

自分の価値を自分で感じることができないから、家族からの評価で自分を認めたかったし、褒めてほしかった。

そうしたら、自分の存在がとても価値があるものとして、うつり生きていく意味となる。

 

 

 

そう、私は私の価値を感じたかったのです。 

私は自分を自分で認められていなかったんです。

 

だから、他者に認めてもらいたかった。

 

 

 

 

 

自分で自分を認めてあげる。

自分から湧き出る感情を大切に感じる。

自分に優しくする。

私の時間を大切にする

悲しいことがあったら、自分で自分に共感する。

 

穏やかな時間は、こうやって訪れました。