まだビデオがなかった時代に「ミッドウェー海戦」「パールハーバー」など、アメリカが第二次世界大戦中に撮影した記録映画を8ミリでよく見ていた父だが、自分の体験を語ることはなかった。
そんな父がたった一度だけ自分の話を私にしてくれた時があった。
(母は一度も父の戦時中の話を聞いたことがないと言っていた)
今日はその話を書こうと思う。
川西航空機が作っていた紫電改
父は幼いころから体が弱く戦地へ行くことはなかったのだが、
宝塚市の阪神競馬場にあった「川西航空機 宝塚製作所」(現在の「新明和工業」)に近所の「ハルちゃん(仮名)」と学徒動員で働きに行っていた。
ハルちゃんは片足が不自由で松葉づえをついていた。
彼とは、仕事に行くもの一緒、休憩時間も一緒に過ごしていた。
宝塚は大きな空襲はなかったが、何度か工場は空襲に遭い、そのたびに父はハルちゃんと防空壕に避難していた。
その日もいつものように仕事をしていると空襲警報が鳴った。
同時に空を埋め尽くす戦闘機から無数の爆弾が降ってきた。
父はハルちゃんと逃げた。
建物の陰に隠れながら隙を見ては防空壕に向かって走った。
あと少しで防空壕というところでハルちゃんは
「俺はいいからタケちゃん(父)行って!」と行った。
「あと少しだから一緒に行こう!」と励ましたが、ハルちゃんは首を横に振った。
「俺はここで大丈夫やから。後で会おう」
父は、ハルちゃんを置いて泣きながら防空壕まで走った。
背後に爆風を感じながら。
昭和20年7月24日のできごと。