片山敏彦「暗い時間に」の朗読です。
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「暗い時間に」
空には
燃える秋の星がある。
地には天に向つて立つけやきがある。
葉の階層――剛い幹。年輪の多いあらい幹。
彼は、昼と夜、空間のひろがりの中で
思想である。流出である。
心に
不安がある。獣と共通な欲望がある。死を慕ふ憂欝がある。夢の記憶の破片がある。
全ての感激に立ち上つて、それに交り込み
限界の輪廓を打ち砕きたい動律と火流とがある。
どこへ行くのか? 今それを思はない。
僕は
秋の夜の、目がぐらぐらするほどな
星の無数の穴を見上げて立つ。
一つの胸が、自分にある。

底本:「日本の詩歌 26 近代詩集」中央公論社
   1970(昭和45)年4月15日初版発行
   1979(昭和54)年11月20日新訂版発行
入力:hitsuji
校正:染川隆俊

【人物出典/フリー百科事典ウィキペディア】
片山 敏彦(かたやま としひこ、1898年(明治31年)11月5日 - 1961年(昭和36年)10月11日)は、日本の詩人、文学研究者、ドイツ文学者、フランス文学者。ロマン・ロラン、ヘッセ、リルケ、ハイネ、ゲーテらの翻訳も多く、『著作集』全10巻がある。

1898年(明治31年)11月5日、高知県医師会会長・片山徳治の長男として高知市帯屋町に生まれる。母の名は「歌」で、姉・佐栄との4人家族であった。
1905年、高知市立第三尋常小学校へ入学。
1911年、高知県立第一中学校(現在の追手前高校)に進んだ。多感で、詩に牽かれ、短歌を投稿するなどした。
1916年(大正5年)(18歳)、岡山市の第六高等学校第3部(医科)に入学した。西欧の哲学、文学を耽読した。1919年、高校卒業後、文学を志して上京した。同人雑誌を出した。
1921年(23歳)、東京帝国大学独逸文学科に入学。このころ高田博厚、高村光太郎、尾崎喜八らを知った。
1923年、斎藤知子と同棲し、翌2月結婚した。ロマン・ロランに心酔した。
1924年(26歳)、大学を卒業し、法政大学予科独逸語専任教授となった(1932年まで)。母没。高村、高橋元吉、高田、尾崎らと雑誌『大街道』を創刊し、また、ゲーテの『エッカーマンとの対話』の翻訳を、雑誌『不二』に載せた。
1925年、ロランとの文通を始めた。上記の仲間らと『ロマン・ロラン友の会』を作った。油絵を美術展に出品した。井荻(現在は杉並区清水)に新居を構え、疎開を除き終生住んだ。
1926年(28歳)、ロラン生誕60年記念のスイスの出版に、独文を寄稿した。倉田百三と交際した。
1928年、高村・高田・尾崎らと雑誌『東方』を始めた。
1929年(昭和4年)(30歳)、4月に出航し、6月から翌々年3月までヨーロッパに滞在した。パリでは、ヴィルドラック、デュアメルらと交わり、また、スイスに在住していたロマン・ロランを訪ねて知遇を得た。ドイツでは、シュテファン・ツヴァイクを訪ね、アルザスでシュヴァイツァーに会った。1931年、渡仏した高田博厚をロランに引き合わせる。
1932年6月、第一高等学校講師となり、ドイツ語を教えた。
1933年1月、妻を喪った。4月、法政大学文学部講師となった(1937年まで)。
1935年3月、父没。菊地愛子と再婚した。雑誌『世代』を発行した(1941年まで)。
1938年2月、第一高等学校教授となった。
1945年4月、その職を辞し、6月、群馬県北軽井沢に空襲を避け、栄養失調となり、戦後の10月、小諸市近在の塩名田に疎開した。
1947年1月、杉並の自宅に戻り、3月から1年間東京大学ドイツ文学科の講師を務めた。
1948年7月号創刊の『心』同人になった。
1949年、『日本・ロマン・ロランの友の会』発足に伴い委員長となった。みすず書房版『ロマン・ロラン全集』の監修・翻訳をしている。
1952年、フランス政府文化使節として来日したデュアメルの、歓迎委員になった。
1956年9月(58歳)夫人没。
1957年と1958年、高知女子大学で集中講義を行った。
1959年、雑誌『表象』が『片山敏彦還暦記念特集号』を組んだ。
1960年4月、小山富士夫、高田博厚、武者小路実篤らと美術展を開くなど、抽象性の強い絵画を多く描いた。
1961年、前年秋から肺癌に冒され、4月東大病院へ入院。闘病を経て満63歳を前に10月没した。