「人と話が合うも合わぬも所詮は血液型の問題ですよ?恋人よ!今宵私がどのように今晩お前を想っていようと・・・」
~中原中也「草稿詩篇(1933~1936)より、「断片」を朗読しました。

●テキスト出典/中原中也全詩集(角川文庫)一部参照
●人物紹介出典/フリー百科事典ウィキペディア
●曲/甘茶の音楽工房 
●アーティスト/甘茶
●効果音/効果音ラボ
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●「人物について」Wikipediaより一部引用添付
中原 中也(なかはら ちゅうや、1907年(明治40年)4月29日 - 1937年(昭和12年)10月22日)は、日本の詩人、歌人、翻訳家。旧姓は柏村。
代々開業医である名家の長男として生まれ、跡取りとして医者になることを期待され、小学校時代は学業成績もよく神童とも呼ばれたが、8歳の時、弟がかぜにより病死したことで文学に目覚めた。中也は30歳の若さで死去したが、生涯で350篇以上の詩を残した。その一部は、結婚の翌年刊行した処女詩集『山羊の歌』、および、中也の死の翌年出版された第二詩集『在りし日の歌』に収録されている。訳詩では『ランボオ詩集』や数は少ないがアンドレ・ジイドの作品などフランス人小説家の翻訳もしている。日本大学予科、中央大学予科などを経て東京外国語学校(現在の東京外国語大学)専修科仏語部修了。

●「人柄・性格」Wikipediaより一部引用添付
〇中也の性格について、中也の弟呉郎の解釈によれば、「農から出て立志した父の“荒い血”と封建の臣として淘汰された母方の“静かな血”の混血から成るもの」という。

〇中也は自分の名前は森鷗外につけてもらったと称していた。鴎外は父の謙助が軍医学校在籍時に校長を務めていた。しかし母のフクによれば、旅順の軍医大佐「中村六也(中村緑野)」からとったものだという。

〇中也の代表作「サーカス」は本人にとっても自信作であり、中也とはじめて会った人間は大抵朗読を聞かせられた。「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」のオノマトペを、仰向いて目をつぶり、口を突き出して、独特に唄った。

〇中也の遺族によれば、帰郷すると東京の交友関係を大げさに吹聴していたという。小林秀雄は三代続いた江戸っ子、青山二郎は青山と名の付く町全部の大地主、といった具合である。これは両親に仕送りを続けさせて東京に在住するためと大岡らに説明していた。

〇『白痴群』時代の服装は、五尺(151.5cm)に満たない体を黒いルパシカ、冬は黒い吊り鐘マントで覆い、頭には「お釜帽子」と呼ばれた黒いソフト帽をかぶっていた。のちに黒い背広に黒いベレー帽、冬は黒い外套に変わったが、黒ずくめの服装は中也のイメージとして定着した。

〇大岡昇平は1976年月刊『ポエム』創刊号誌上での正津勉との対談の中で、中原の道化はわざとしているような感じで、一種の抗議者の役目を自分に振り当てている。ふざけて面白がっているところが随分あり、人に毒づいているときは結構楽しそうだったと語っている。また、2人は喧嘩をする割には会う機会が多く、皆最初は中原をあがめていたが、「白痴群」をやめるころから重荷になり始めた。こじれると妙に勘繰るところがあり、ありもしない下心をさぐられますますこじれたとも語っている。大岡は「中原の中には、疑うべくもない魂の美しさとともに、何とも言えない邪悪なものがあった」と書いている。