私は何もよりも、とりあえずそのJemが私の顔を覚えていたという事実に驚いた。彼は私の斜め後ろに立って、私とパソコンの画面を交互に覗き込んだ。

「何してるの?」

「化学の復習」

「わあ、難しそう…というか、これ全部日本語だね」

「うん、日本語で読んだほうがよく理解できるから…」

たわいもない会話を交わした後、私はさらにこう続けた。

「ねえ。今度こそ遊ぼうよ!あさっては私の誕生日なんだよ」

「えぇっ、そうなの、それは何かするっきゃないね!」

「ホント?!一緒にどこか行ける?」

「もちろん、行こういこう!あとで電話するよ」


そういえば後々にわかったことだけれど、出会ってからほんの少しで「どこか遊びにいかない?」という話題が持ち上がるときは、たいていの場合「脈あり」である。つまり、その彼は私に一応興味がある、ということだ。デート、という言葉がでてくることはなくても絶対に気がある。


Jemに出会ったころはそんなこと知らなかったけれど、今思えばJemに「どこかに遊びに行こうか?」と初めて言われたのは出会ったその日だったっけ。しかもあとでJemが言ってくれたことだけど、Jemが私に声をかけたのも、わたしがホットだったから、らしい。ホットっていうのは…つまりはJemは私がかわいいと思った、っていうこと。お褒めの言葉、どーもありがとう。

そうして私に、出会ってから1ヶ月してやっと初めて遊びに行けるという大いなる期待を抱かせたJemだったんだけど。Jemからの電話をまつ私に、彼が電話をかけてくることはなかった。まだほとんど彼のことも知らなかったから、そんな彼を理解するのはすごく難しかった。裏切られた、という気持ちだけが私の中で大きくなった。

Jemからの返事はなかなか来なかった。

そのまま2週間ほど過ぎて、時はすでに2月半ば、バレンタインデー。


バレンタインデーといえば、私の周りではその日はSADと呼ばれていた。Singleness Awareness Day、つまりは、シングルの人がとても目立ってしまう日だ、ということである。そんなことをいう人がいる一方で、花を送られた女の子が嬉ししそうにその贈り物を腕に抱えて構内を歩く姿も多々みえた。アメリカでは、日本と違って、この日は男の子たちによる女の子のための日なのだ。


夕方、5時過ぎ。

早めに図書館入りした私は、あれっきりうんともすんとも言ってこないJemに気まぐれでメールを書いた。元気?今日はバレンタインデーだね、Jemも忙しいのかな?と。そして、私自身は今日はSADを楽しんでるよ、と付け加えた。返事を期待して書いたメールではなかった。あくまでも、私という友達がいたことを彼に思い出させるために書いたメールだった。だけど、結果は意外。2週間音沙汰なしだったというのに、返事はなんと私がそれを書いて送った1時間後に受信箱に飛び込んできた。なんと早いこと。彼は8時までバイトがあるらしかった。


今思えば、そのときだったのかもしれない、Jemが大学のライティングセンターでバイトをしていることを知ったのは。彼の専攻はクリエイティブライティング…創作英文学、とでもいうんだろうか。そして彼の専門は、詩。そう、彼は詩人だった。後にわかったことだけれど、彼は詩だけではなく短編小説なども手がけていたようだ。詩を書いているときの彼の集中力はすごかった。詩の内容も、もちろんすごかった。一度、ヒロシマ、という詩を読ませてもらったことがあったけれど、単語を知っているにもかかわらず私には理解できなかったのを覚えている。ああ、そうそう、彼は日本についての詩を書くのが大好きだったみたいだった。自分の体験したことを、次から次に詩に残していた。


ライティングセンターというのは大学内にある施設で、学生がタダで英語の論文の添削をしてもらえる場所である。Jemは、その添削のバイトをしていた。それほど英語力には優れていた。予約をとれば、誰でも添削してもらえる。後に、このサービスこそが私とJemをつなぐ架け橋になる。なぜなら、予約が入っている以上いくら時間にルーズなJemでもこれには遅れるわけにいかなかったからだ。もちろん忙しい、と言い訳してドタキャンすることなんて出来ない。すれ違いの多くなっていく多忙な私とJemにとって、このサービスはあって話ができる貴重な機会だった。


時はさらに流れて、私の誕生日が間近にせまる2月20日…

このあたりから、Jemの名前は私の日記にたびたび登場するようになっていた。だたおかしなことに、私は頭の中にJemの顔を思い浮かべることがもはや出来なくなってきた。出会ってから約1ヶ月。あれからまったく顔を合わせないままだったのだ。思い出せたのは、あの髪のカール。それだけだった。


だけど、彼はそんな私の前に突然すがたを現した。2月22日。




あの時もまた、私は図書館にいた。



「ともこ!元気だった?」

そのあとJemは、自分が日本のどこで英語を教えていたのか私に説明した後、甘酒がお気に入りだった、と満足げに話した。日本料理を今でもよく作るらしくて、最近はオムライスが特に好きなんだという。大学のあるこの町のすぐ隣のまちには、アジアの食品を扱う大きいスーパーがあるんだ、とも教えてくれた。…これ以外にもいっぱい、だいたい10分くらい話したのに、何を話したのか不思議なくらい思い出せない。唯一思い出せるのは、「あ、この人とはすごくウマが合う!」という嬉しい第一印象を抱いたこと。なんでだろう、その10分という時間は、1分に感じられたほどあっというまに過ぎていった。初めてだった。出会ったその瞬間に、こんなにもピンと来た人は。この人はきっと、いい友達になる。その日の日記に、私は無意識にそんなことを書いていた。


それから何日かして、私はJemにメールを送った。メールをくれるといったくせに、Jemがそうしてくれる気配が全くなかったからだ。あの日の、あの感覚がなかったらきっとそのまま彼のことなんて忘れ去っただろうけど―― このまま忘れちゃいけない気がして、忘れたくない気がして、メールを送ることにしたのだ。

返事はあっという間にきた。

今度どこかに遊びに行こう、ともこと友達になれてよかった! という内容だった。

そのメールを読んだとき私は大学の図書館にいた。この図書館は、朝は7時から夜は12時まであいている。当時の私の住処と化していた。冗談などではなく、毎日10時間の勉強なんて当たり前だった。そのせいか、図書館で出来た友達も何人もいた。カフェのような音楽はなかったれど、夜遅くになると、図書館に集うメンツはいつも同じでなんだか和やかなムードが漂っていた。寮の部屋に戻るのは、夜11時過ぎ。本当に、寝るためだけに帰るようなものだった。部屋といってもくつろげるようないい部屋ではなく、冷たい床がむき出しのまったく落ち着かない二人部屋。ルームメートのアメリカ人がとてもいい女の子だったのと眺めがよかったことが、10階の隅にあった私の部屋の唯一の長所だった。

そう、私はあの時図書館にいたんだけれど、それにもかかわらず、おもわずパソコンの画面に向かって微笑んでしまった。ともこと友達になれてよかった!とスパッといわれるのは、何だか照れくさかった。けど、嬉しくないわけはなかった。この間話してくれた、あのスーパーマーケットにいってみたい、と返事を書いた。