私がアメリカに住むのは、これが初めてじゃない。今から3年前、高校2年の7月から1年間、私は高校生交換留学生としてアメリカの高校に通っていたから。あのときの私の英語といったら、まったく、今となっては笑えるほど下手くそで。よくたった一人でゼロからがんばれたものだと思う。実のところ、怖いもの知らずのこの度胸も、負けず嫌いな性格も…さらにはアメリカ人と友達になる術なんてものも、このとき手に入れた。あ、もちろん、今はぺらぺらになったこの「英語」も。

そして今。私はまたアメリカに戻ってきた。今度は、大学生として。高校生の時には出来なかった経験をしたくて。何が「出来なかった経験」かっていったら、そんなの山ほどある。だからひとえにコレ、とはいえないけど、まあ一つ挙げるとすればもっとアメリカ人を理解したい、ってことだろうか。なんというか。表面だけの仲良しじゃなくて、もっと深い感情を共有してみたかった。もっといろいろ文化の違いを討論してみたかった。そんな感じ。

ただ、忘れてはならないのは、文化交流が目的だった高校生のときと違って今の私は勉強するためにここにいるってこと。ここアメリカで、英語という外国語で日本語でもとんちんかんな授業を受け、テストをパスし、論文を書き、そして学位をとって卒業する。それが今の私のここアメリカで生きてく意味!…なんてことを毎日考えて勉学に励むことができるほど、私はイイ子じゃない。大学生だもの、友達関係の話題やら、スポーツ、さらには(お決まりの)いわゆる恋バナに友達と盛り上がることの方が多いに決まってる。あ、ちなみにこれ、「アメリカ人と」盛り上がるってのがポイント。

だって、ドラマみたいな毎日を過ごしたいから。嬉しいことも悲しいことも、両方あって初めて物語は楽しくなる。まじめな話もするけど、くだらない話で大笑いするのもいいもんなんだ。そうして後で振り返ってみたときに、思わず本を書きたいなって思えるそんな時間をすごすのが私の目標。



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その彼は、ちょっと驚いた顔をしてその場につったっていた私にニコッと笑った。さっきまでただきれいなだけだったその茶色の目に、初めてぬくもりがともる。

「日中、一度も寮に帰らないから今日ある授業の教科書は全部持ち歩いてるの」

ほんとのことである。

「へえ、そうなの。キミよりそのリュックのほうが重いだろうね」

彼は、そんな何でもない一言をなぜかとても嬉しそうにいってのけてみせた。

「日本人?」

へえ、勘のいい人がいるんだな、と、正直驚く。このキャンパスにアジア系の学生なんて山ほどいる。よく一発で言い当てられるものである。うん、とうなずく私。

「やっぱり。俺(とあえて訳す)、日本で英語を教えてたんだよ。何年か前に」

コーヒーをすする。

「あ、俺の名前はJem…キミは?」

ともぉぉぉこ、と、私。

アメリカ人に名前を言うときは、たいてい彼らの発音に合わせて「も」にアクセントをおく。

だけど。

「ああ、ともこ。よろしくね!」

彼はあっさり、すんなり、まるで日本人が言うようにするりと私の名前をいってのけた。




わたしとJemが初めて言葉を交わしたのは、去年の1月の、ある寒い日だった。

  お気に入りのカフェで、熱いコーヒー楽しみながらベーグルをかじる。それが私の日課だった。ランチタイムともなると、店は友達と連れ立った大学生でいっぱいになる。友人とのおしゃべりに夢中になってるうるさいイケメンもいれば、一人静かに本を読む女の子もいる。私は、前もって言っておくけれど、ガリ勉ではない。だけどその日、いつもそこにいる友人の姿はなく、それゆえに私はテーブルに教科書をひろげてそれをただ呆然と眺めながら数十分のランチタイムを過ごすごとにした。

  まあ、こんなことはそんなに珍しいことではない。

  現に、私は一人で落ち着いた時間を過ごすことが結構好きだ。

  ただ一つ、その日普段と違っていたのは私の真横に見覚えのあるアメリカン・ガイが座っていたことだった。いや、ここはアメリカなわけだし、アメリカ人、というのはポイントではない。何を隠そう、この人、数日前にもまったく同じこの席にすわっていたのだ。そのうえ、机の上に置かれた本も、コーヒーの種類も同じである。しかもこの人、クリッとした、大きな目でキョロキョロと私のほうをみてはまた自分が読んでいた本に目を落とす、てなことをずっと繰り返していた。そして今日もまた。

  それまでにも、いわゆる変態だとかLady’s man(女ったらし、みたいなもの)、はたまたYellow Fever(アジア系女性が好きでたまらない男性たちの持つ「病気」)なんぞに声をかけられたりしたことはあった。CuteだのI like youだの言われて、正直イヤな気はしなかったけれど…でも、やっぱりそういうのにはあまり感謝しない。

  …この彼も、そんな中の一人なんだろうか。

  

  なんだかぞわっとした。

  寒気じゃなかった。

  彼の視線が怖かったわけでも、それが嫌だったわけでもない。

  だったら何だったんだろうか。

  悪い予感ではなかった。

  そんな気持ちが、私の視線を無意識のうちにそちらの方にも向けてしまっていたのかもしれない。手元のベーグルやコーヒー、もちろん教科書もそっちのけで、私はちらりちらりと彼の動きを横目でみていた。栗色のカールが、冬の太陽に照らされてまぶしく見えた。堀の深い目元。私のまつげも、メイクなしであのくらいカールしてくれたらいいのに、と密かに思った。そして、髪とおなじ暖かい茶系の色をした目。すごくきれいだった。瞳孔とその周りを区別するのも難しいほど私の目は黒かったから、余計に魅力的にみえたのかもしれない。…私がこんなにもよく彼の顔を観察できたのは、都合のいいことに、私の顔の両脇のまっすぐと長い黒い髪が、私が彼を覗くその視線を完全に彼のほうからは見えないようにしていたからだった。

  何もしないまま、時間だけが過ぎていく。

  

  きっかけもないのに話しかけるのは、いくらアメリカ人がフレンドリーだからといっても気まずいものがある。でも、なんだかこのまま何事のなかったかのようにこの場を去るのも何だか惜しい気がしていた。

  不思議な自信があった。

  この人と、今、友達になるべきだ、という自信が。

  直感みたいなものだった。

  時はまた流れ、ついに何もしないまま私は教科書をしまい食べ残しをゴミ箱に捨てた。結局何も起こらずに終わった、そう思った。コートを着る。外は氷点下の世界だ。おもむろに、教科書のつまったリュックサックをしょった。その日は4コマ授業があったから、リュックはちっぽけな私の背中で絶大な存在感を放っていた。なぜだか不満だった。どうして彼に話しかけなかったのだろうか、と。自分から話しかけてその人と友達になるのは、私の特技のはずだったのに。なんでだろう、その日の私は話しかけられることを待っていた。でも、それは叶わなかったのだ。彼はいまだ隣でコーヒーをすすっている。すぐにそこを離れればいいのに、わざと時間をかけながら私は席をたち授業に行く支度を整えた。マフラーもまいたし、手袋もはめた。足元に目をやっても、紐はほどけていなかった。念のため、と心の中で自分に言い聞かせながら結びなおす。もう、やることは本当に残されていなかった。時間稼ぎは、もうできない。実際、授業まで15分をきっていた。

  

  私はくるりと向きをかえ、カフェの出入り口に向かうことにした。

「キミのリュック、すっごく重そうだね!」

  その声に振り返った私の先で笑顔を浮かべていたのは、紛れもない―隣の席の、あの人。Jemだった。これが、これから始まる長い物語の最初の1ページ。