村上春樹氏の新刊「1Q84」が100万部を突破したようですね。



これほど売れている理由として著者本人の名前の大きさに加えて「営業や宣伝をあえてしない」という戦略が効いているらしい。



本の内容を一切公表せず、タイトルと発売日しかわからないようにしておくことで期待感を煽るという戦略。



もともとの村上ファンだけではなく、興味のなかった人までも「売れてるんなら読んでみよう」と思わせるという好循環によってまだまだ売れ続けていくそうな。



内田樹先生がこの本についての書評を書いていたけど面白かった。



村上文学を読む際のキーワードは「父」である。「父」とは精神分析学用語で、「世界の意味を担保するもの」。

要するに「システム」、「権力」、「社会」、「世界を秩序づける神」などといった「自分の力ではどうしようもないもの、抵抗できないもの、秩序やルール」のことである。



どんな小集団でも「父」をもっている。逆に言えば「父」がないと集団としてはカオスであり、成り立たないのだ。



精神分析の世界ではこうした「父」を受け入れることが「成熟」であり、「大人」であるとする。年齢ではない。



私たちはよく何か自分にとって満足のいかない事態が起こったときによくその責任の所在を「父」に求める。

「今の自分がこんな状態なのは社会が悪いからだ」 「政治が悪いから自分の生活は改善されない」「今の職場がだめなのは自分以外の誰か、あるいは何かが悪いからだ」などなど日常で「父」のせいにしている事柄を挙げれば枚挙に暇がない。



これは「父」を受け入れているのではない。要請しているだけだ。



だから、こんな人は「大人」とは言えない。成熟もしていない。



世界の意味を担保付けているシステムや秩序をきちんと受け止め、そしてそれがローカルなものに過ぎないことをきちんと認識して自分の手の届く範囲で周りの友人、家族、他人と共生していく。これが重要なのだと思う。






私たちは「父」を要請してはならない。
たとえ世界のかなり広い地域において、現に、正義がなされておらず、合理的思考が許されず、慈愛の行動が見られないとしても、私たちは「父」の出動を要請してはならない。
「ローカルな秩序」を拡大しようとするときも、ひとりひとりの「手の触れる範囲」を算術的に加算する以上のことをしてはならない。
私は「父権制イデオロギー」に対する対抗軸として、「ローカルな共生組織」以上のものを望むべきではないと考えている。(内田樹の研究室 「『父』からの離脱の方位」より)






いい文だ。「父」をローカルなものとしてきちんと受け入れ、かつ要請してはいならない。

内田先生は村上文学に一貫しているテーマは「私たちは『父』を要請せずに生きていけるのか」だという。

そして、それは難しいことだ。




思うに「自由」とは、「なんでもかんでも好きにできること」ではなく、「なんでもかんでも『父』のせいにしないこと」ではないか。つまり、何か嫌なことがあったときでも「父」を要請しないこと。「父」という呪縛から解放されていることこそが真の「自由」なのではないか。そのことを村上文学は教えてくれる。




自分も解放された「大人」にならないと・・・。






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今日からブログ始めます!!


日々の考えや出来事を文章化して記録しておくのは重要ですね、やはり。


なるべく更新するようにしよう、ほんとに。


実はあまり日記などの類は好きではない。というのも、文章を書くというのがどうも自分は苦手らしいことに最近気づいたので。就職活動などでESを書くのもそうだが特に書くことがない。書けば書くほど自分が薄っぺらい人間に見える。いや、実際そうなのだが・・・。



思えば、小学生や中学生のころもそうだった。読書感想文や何らかの感想文というものが苦手だった。というよりも嫌いだった。どうもそういった感想文は「予定調和的」なものだと感じてしまうのだ。



例えば、文化祭の感想文を書くにしても、「みんなでひとつの事をやり遂げる大切さを知った」「大変だったが団結力を発揮して頑張り、充実したものになった」云々・・・。こんなものは感想というよりもただの教訓であり先生が書いてほしいことをいかに上手く感動的に書くかというものだ。要するに先生と生徒の間での予定調和的なものなのだ。



とどのつまり「良い感想文」とは空気を読んで先生の期待通りのことを書いてくることだった。ほんとは感想とか言われても「だるかった」「疲れた」、あるいは「楽しかった」くらいしか出てこない。というかそもそも読書をしたり、イベントを経験するたびになにか感想がなければいけないのだろうか。



昔ある推理小説の感想文を書かされたときも、正直「ドキドキした」くらいの感想しか思い浮かばなかった。これでは、童貞を捨てたときの感想となんら違わないのだ。もっと正直に言うと実はその本を全部読んでいなかったのだ。なので、さらに感想を述べろといわれても「眠たかった」「飽きた」「腹減った」くらいしか浮かばなかっただろう。


こうした予定調和的というか、建前みたいなものをきちんとできる子供は将来就職活動するときにも大変有利になると思う。なので、お子さんがいる人は何かする度に感想や理由を話させることをお勧めする。



「すき焼き食べてどう思った?」「トイレに行けてどう思った?」「宿題できてどう思った?」「給食当番になってどう思った?」など、こうした質問攻めにあい鍛えあげられた子供は将来社会という荒波に出るころには立派にグレていることだろう。今僕がこうしてグレいないのは子供のころから何も考えずにゴロゴロしていたからだな。今思いついたけど、子供がヤンキーになるってのは将来の事を何も考えていないからではないのだな。逆にあれこれ考えすぎてしまうからなのかもしれない、普通の子以上に。感受性が人並み以上に強いのかも。



というわけであまり文章はあまり上手くはないけど、僕も色々思うところがあるし、「楽しかったです」的な事も書いていこうかなと思っているわけです。むしろ上手い必要がどこにある。プロじゃないんだし。この前あった人ライターの人ですらそんなに文章上手くないんだし。


とにかく、このブログを通して「日々ノ出来事ヲ記録シテイク事ノ大切サを学ンデイキタイト思イマス」。