昨日の朝、初の朝露が。季節の移り変わりを感じました。

 

 

 

ちょっと前から落葉。今朝の公園の木々。

 

 

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ありがとうございます。

 

 

昨年5月の日本滞在記、続編です。

 

 

福岡2日目にずっと気になっていた

兄のお見舞いに父と出かけました。

 

3歳になったばかりの時に

高熱を伴う痙攣の頻発で、

脳に障害を受け、

知的障害児となった兄。

 

医師にはとても普通のコースは

無理と言われたのを覆したのは

母の執念ともいえる思いと取り組み。

 

特殊学級から一年遅らせて

普通校に入ってから

勉強に付いていくのも必死、

手先が極端に不器用で、
運動能力も劣るのを

根気よく繰り返し教え、

鍛えることで乗りきり。

 

中学は最初は特殊学級から

スタートしたのですが・・・。

 

本人の強い希望もあり、

途中から普通のクラスへと

戻って。

 

高校にも進学。

 

浪人して、田舎の福祉の大学に

入り、実家を出て一人暮らし

(両親が頻繁に通っていた)。

 

 

兄の学生時代は

小学校から大学に至るまで

陰湿な苛めに遭い続けてきました。

 

小さい時は大人しくて

従順な子だと思っていたのが

普通校に移って以来、

負けん気の強い面が出てきて

「え?こんな子だったの?」と

両親もびっくり。

 

「ナニクソ!」があったから

ここまで来れたのかもしれません。

 

ただし、就職となると

そう簡単ではなく。

 

自分の能力と現実の

ギャップを受け入られない兄。

 

普通のようにはできないので、

どうしても人から注意されるし、

それに耐えられない。

 

苛めの後遺症。

 

学校がある内は

まだ行く場所があったのが

なくなったこと。

 

兄に合いそうな所をと

色々と探したものの

見つからず。

 

色々なことが重なって、

社会不適応となり、

精神科に入院。

 

その後、数回

入退院を繰り返しました。

 


 

精神科は治療ではなく、

相当量の薬の投与をされ、

大人しくさせるだけ。

 

どこの病院でもそうでした。

 

それを知っているので、

両親は兄を何とか病院に

入れずに済むようにと

必死でした。

 

2004年に退院してから

両親は相当、無理をしながら

頑張ってきたのですが・・・。

 

とうとう2015年の5月の末に

兄は入院となりました。

 


 

兄が入院する少し前、

2015年の帰国の時以来の

約1年ぶりの兄との再会。


父から「今までの病院よりもいい」と

聞いていたので、

少しは安心していたのですが・・・。

 

現実は厳しいものでした。

 

あまりの兄の変わり様に愕然。

 

外にも出る許可がない状態で

収容されているので、

歩けなくなり、

車椅子に座り、

すっかり痩せていました。

 

大量の薬の投与は明らかで、

時々、涎が垂れ、

目が合わせられず、

下向き加減。

 

私のことは分かるのか?

 

見えているのか?

 


 

入院以来、精神的なショックから

声が上手く出せなくなっていた兄。

耳が遠い父との会話は無理で、

筆談も薬の影響で兄が上手く文字を

書けず(書いても小さすぎたり、判読しづらく)、

1年ほど両親とはコミュニケーションは

取れていませんでした。

兄は私のことが分かっただけでなく、

兄の聞き取りにくい言葉を

何度も確認しながらでしたが、

会話もできました。

 

 

父が「今までよりもいい病院」と

言っていたのは

スタッフが両親に接する時、

感じがよいという意味でした。

 

それが患者である兄にとって

どうなのかはまた別。

でも、それは兄が言うことが

伝わってはいなかったので、

両親は知る由もありませんでした。

よくこの状況に耐えてきたと

兄の強靭な精神力に

信じられない思いでした。

 

私が兄だったら

狂っているか

何も感じないように

自分を閉ざしていたことでしょう。

 

最後に会った時の兄から

時間が止まっていたかのように

あの時の兄のままだったのです。

 

 

 

 

最後までお読みくださいまして

ありがとうございました。