2015年の4月に一時帰国した時。

 

 





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ありがとうございます。



自分の中でテーマとなる言葉が

幾つも浮上しました。

 

 

その一つが「闘いから降りる」。


精神科に入院する前の兄。

 

 

何が起きてもおかしくはない状況。

 


父も母もよくここまで
持ちこたえてくれた。


それでも母、兄はこの時は

完全に「闘う」ことからは

降りていませんでした。

 

 

母の言葉の端々には

諦めの気持ちと混乱。

 

 

兄のことだけで
日々の生活は

いっぱいいっぱい。

 

 

でも兄を病院に入れるという
選択はしたくない。

 

 

それだけを支えに

何とか我慢を重ねてはいたものの。

 

 

最後は兄は5月に
精神科に入院という形に

ならざるを得なくて。

 

 

母がそこからポキンと

張りつめていたものが

折れてしまいます。

 

 



その結果、母はずっと「闘っていた」

ところからやっと降りてきました。

 

 

深い鬱で、

何もする気が起きず

「ボケ」が始まっているかも?と

自分でも心配するぐらい。

 

 

ぴーんと張っていたものが緩んで。


一昨年の4月に垣間見えた

「母が父に文句を言っている姿は

まるで父親に駄々をこねる童女のよう」。

 

 

 

 

昨年の5月の帰国では

更に顕著となり。


いつの間にかそれを

「かわいらしい」と

受け止められるだけに変化した

昭和ヒトケタ生まれの父。

 

 

父も母のただならぬ変化に

気が付いて。

 

 

二人の中の闘いは終わり、

わだかまりも溶けていくのを

感じる最近です。



あとは兄。

 

 

「闘い」から降りざるを得ない

状況に追い込まれて。


昨年、会った時に

SOSの言葉を発した兄。


「闘い」から降りるのに

まだ時間がかかりながらも。

 

 

 

だからこそ、私も

自分の内側にある
葛藤、闘いから降りる。

 

 

自分の中の紐解きの決意、

覚悟が決まったのです。




最後までお読みくださいまして

ありがとうございました。