狭山池競艇場

ナビゲーションポイント

072-367-8891

大阪府立狭山博物館

〒589-0007

大阪府大阪狭山市

池尻中2丁目


ナビゲーションポイントは

博物館を設定しましたが

実際は時計まわり道なりに

大きなマンションが

東岸にありますので

そちらを目指してください

そうすると、さやか公園が

あります

さやま公園ではありません

おそらくこのあたりが

狭山さやま遊園のあった場所と

思われます

この東岸に競艇場が

あったようです





じつはここ前々から

行きたかった場所でして

全国どこかに

自分と同じ事している人が

いるはずだと思っておりましたが

実はその人こそ

トークンさん です

おじいさんが競艇選手

元々潜水艇の整備やってたそうで

競艇のエンジンつついた時から

おじいさんの選手人生が

はじまります

そのおじいさんの日記を元に

旅をされています

トークンさんは世界を

またにかけているので

自分とはスケールがちがいます

自分の大好きブログです


さて話を戻しますが

狭山池は日本最古のダム

としても有名ですよね

この狭山池競艇場は

狭山さやま遊園施設を

利用してオープン

夏の干ばつで池が干上がり

レース中止をきっかけに

1956年(昭和31年)

4月10日に閉鎖され

住之江競走場(現;住之江競艇場)

へ移転されたそうです

ありえないでしょう(笑)

トークンさんのおじいさんの

日記には

ペラにゴミがひっかかたり

タイヤが流れてきたり

今では考えられない記事が

たくさんあります


あとはね、この日

池の周りを市民ランナーが

1分おきに通過するんですよ

いつか、たかやんと

走ったるって気持ちになりました

でもまだ寒いので

今はウォーキングがんばります



日本の何処かで


大阪での競艇の初開催は史蹟名勝の池。応神天皇が、か

んがい用にと造られた日本最古の記録のある狭山池である

。この池には大蛇がすむという伝説もあり、文字通り千古の

池である。

全国の自治体が戦災の荒廃から立ちあがるため懸命に財

源を探していた時代。大阪府民の中にも投機を求める気分

があり戦前からの競馬や戦後公認された競輪の好況さらに

海国日本の海事思想普及という“大義名分”も加わり堺市が

中心となって大阪府と衛星都市16市の市長が話し合いを

はじめたのが昭和26年の春ごろである。既に長居で競馬を

主催していた大阪市は降り残りの16市が一致してこの事業

に取り組んだのが昭和27年の初夏。大阪府とも打ち合わせ

を重ね16市の市長の合議で「大阪府都市競艇組合規約」

の案を作りそれぞれ各市議会の議決をとり府の地方財政

委員会から告示第36号をもって指定の通知を受けたのが

7月30日。直ちに一部事務組合設置の許可を申請し、この

許可のあったのが翌月の8月11日。モーターボートを走ら

せ競技の運営を担当する「社団法人・大阪府モーターボー

ト競走会」との委任契約。競艇場の施設一切を借上げする

についての「大阪競艇施設株式会社(南海電鉄の傍系)」と

の賃借契約。監督機関である「近畿海運局」(現:近畿運輸

局)船舶部監理課を通じてのレース開催届の提出。など初

開催前夜まで作業がつづいた。競艇場は南海電鉄の経営

していた狭山遊園の狭山池の東側に三千人収容のスタンド

。五千人分の立見席。投票所、払戻所、収納庫、食堂、売

店、選手宿舎など備え当時としてはデラックス施設に300

人の従業員を用意して準備されたポスターの街ばり、立

板配り、車内吊、スポーツ紙への記事掲載等々、職員全員

くたくたになって不安と期待の中に初の開催日、9月5日の

朝を迎えた。

1952(昭27)年9月5日:狭山競走場(施行者:大阪府都

市競艇組合)にて初開催される。この日天候晴。招待者も

含めて、入場者は九千名を上回り、当時、東洋一といわれ

たスマートな観覧席は満員の盛況。緑濃い狭山池にエンジ

ンの爆音すさまじく水煙をあげて初のレースが開始された

。記念すべき第一回開催の5日間は天候にも恵まれて入

場総数2万4千余名。売上金額は17,671,000円。決

算の結果は2,617,361円の欠損だった。関係者の落

胆は大きかった。

その後も狭山競艇場は地理的な悪条件などで入場者も売

上げも少なく第1レースの投票総数が100枚ということさ

えあった。

「狭山の池」は立派な池なのだが、「競艇の池」となると最

適ではなかった。大阪の都心から遠い(南のターミナル「

なんば」駅から南海電車で30分)。関係者の必死の宣伝

にもかかわらず入場者は一向にのびず、従って売上げも

あがらず昭和30年春までに国庫納付金の滞納と負債は

、積り積って実に1,200万円になっていた。

関係16市、管理者、事務局などからは何度も解散意見

が出ていたが施設会社(現:住之江興業株式会社)は損

をしながらも頑張り続けたが1955(昭和30)年8月:旱

魃(かんばつ)で池が干上がりレースが出来なくなり、こ

の事が狭山を去る決定的な要因となった。1956(昭31

)年4月10日:水不足等の理由により狭山競走場は閉鎖

された。






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参考ブログ



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